TOKYO SOURCEが大切にしている7つのこと

7 concepts


面白い

TSの考える「面白い」とは、一時的・表層的なものではなく、既存の価値観に転換をもたらすようなビジョンや発想を含む表現を指しています。メディアに「わかりやすい」ものが溢れる中で、人間や世界、未来への深い洞察に基づいた表現、心からわくわくドキドキさせる表現に出会う喜びが、私たちの活動を突き動かす原動力になっています。

コラム「「笑い」という解放区」(米田)

対話

TSでは、インタビューという対話を大切にしています。私たちは、対話とは説得やディベートとは違い、自分の意見を一旦保留して相手の意見を聞くことであり、異なる立場にいる人同士が意見を出し合いながら新しい道を探る、創造的なアクションだと考えています。私たちの願いは、そんな対話がいつか、世界中でなされるようになることです。

コラム「対話というアクションとその快楽」(近藤)

対話というアクションとその快楽

近藤ヒデノリ

TSを始めた頃、ちょうどイラク戦争が始まろうとしていた。世界のメディアではアメリカのイラクへの侵攻に多くの反対の声が上がっていて、日本でもテレビで連日報道されていたが、どれも問題の本質には触れず、目前の事実だけを通りいっぺんに流しているように思えた。たまたま見た『朝まで生テレビ』でも、議論(らしきもの)が繰り返されていたが、戦争をしたい側/したくない側、双方の意見はまったく噛み合わず、平行線を辿るだけだった。

僕は当時、NYから帰国して(休職して写真と現代美術を学びに3年間留学し、9.11の一週間前に帰国)元の職場に戻り、様々な企業の広告キャンペーンを作りつつ、個人の表現活動として写真やインスタレーションの展示をしたり、自身の結婚を機に人のつながりをテーマにしたグループ展を行ったりしていたが、どこか、空しさを感じてもいた。規模が大きくて単発のものよりも、小さくても、積み重なっていくことをやりたいと思っていた。

9.11については、すでに言い尽くされているが、一つはっきりしたのは「世界には異質な価値観をもった他者がいる」ということだと思う。キリスト教とイスラム教、グローバリズムと民族主義……価値観の違うもの同士がお互いに譲らず、自分の立場を守るために戦っている。身近な例で言えば、僕は未だ喫煙者なのだが(もちろんマナーは守ってます)、最近の嫌煙運動が「健康原理主義」のようになっていて、他の価値観の存在さえ認めない空気が恐しい。そんな中で僕が考え続けていたのは、

「今、この時代に、ひとりの表現者として、人間として、何ができるんだろう?」
「どうしたら多様な価値観をもった人が共存できる世の中になるんだろう?」
「より良い未来、より面白い未来は、どんな世界なんだろう?」

という、ちょっと青臭いけど、切実な問いだった。そして思ったのは、

「世界のいろんな問題は、「対話」の不足から生まれてるんじゃないか?」

ということだった。これからの時代に必要なのは、自分と価値観の異なる他者と、地道に「対話」をしていくことなんじゃないか……そして、自分にできることの一つとして、まずは自分が興味のある異分野の表現者たちと対話をしていこうと思った。もちろん、表現の世界と戦争や政治の世界に直接の関係はない。でも、表現者たちとの対話を通じて様々な価値観を発信していくことが、少しでも自由で、多様な、面白い未来につながっていけばいいと思う。

僕自身、表現を作っていて本当に楽しいのは、作品を通して生まれる友人のア−ティストたちとの何気ない対話、そこでの様々な発見や刺激にあると感じていた。日本に戻ってからも、時々NYに行っては1人ずつ会って対話をしてきたのだが、それを、まずは身のまわりから、東京で、プロジェクトとして行おうと思ったのだ。

実際、TSを口実に会いたい人に会いに行き、様々な分野のディープな話ができるのは幸せな体験だった。1人と話をすると、しばらくの間、自分の頭がその人の思考モードになる。その人の言葉が、次々と自分の口から出てくる……。インタビューを続けていくことは、いろんな人に成り代わり、様々な思考法をシミュレーションしながら、それを写す鏡として自分を見つめることでもあった。

物理学者、デヴィッド・ボームは著書『ダイアローグ』の中で、「対話」とは相手の説得や勝つことを目的とする「議論」や「ディベート」とは違い、自分の意見を一旦保留し、相手の意見を聞いて共有することだという。自分の場を離れ、相手の懐に入っていく対話というアクション。また対話は、異なる立場にいる人同士が意見を出し合いながら、新しい道を探ることでもある。対話による創発性と創造性。僕自身、話を聞きながら、自分に引き寄せて発見をすることが多かったし、相手も話をしながら、自分で意識していなかった発見をしたというのをよく聞いた。インタビュー後も彼らとの交流と対話は続き、その一部は「オープンミーティング」や、グループ展(CET06)の開催につながったり、ルームメートになった人もいる(笑)。

また、様々な分野の表現者との対話は、様々な生き方に触れる事でもあった。真剣に表現に向かっていればいるほど、生き方はその人の表現に否応なしに表れてしまうのだと思う。ここにあるのは、そんな様々な生き方のモデルケースだとも言える。

対話の歴史を紐とけば、古くは哲学者のソクラテスもいる。アンディー・ワォーホールも、雑誌『Interveiws』を創刊している。TSでも参考にした『Hans Ulrich Obrist:Interviews』の中に「Infinite conversation」という言葉があったが、僕らはまさに、そんな「無限に続く対話」の快楽にハマり続けてきた。

「東京発、未来を面白くする100人」を掲げたTS自体、僕と米田を中心とした複数のメンバーによる対話から成っている。書式についても、できるだけ僕らの主観を挟まず、読者がフラットに解釈のできる余地のある、会話体をそのまま載せる形式をベースにした。

3年近くで37人(2008年1月現在)。思えば、海の向こうで戦争が行われている間、僕らはずっと表現者たちとの対話を続けてきたことになる。当初予定したよりもゆっくりとしたペースではあるが、僕は今、たとえ100人を達成しても、楽しみながらライフワークのように続けていきたいと思っている。

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編集

TSを始めたきっかけは、編集者の後藤繁雄さんが主宰する「編集」のワークショップでの出会いでした。私たちは書籍や雑誌だけでなく、あらゆるプロジェクトで異なるものの間に新しい関係を見つけ、組み合わせて価値を作る「編集」という方法を大切にしています。自分を一旦外に開いて世界に触れ、自分というフィルターを通して吐き出す。TSの活動は、自分と世界との往復運動です。

コラム「編集という創造とその先へ」(近藤)

編集という創造とその先へ

近藤ヒデノリ

最近、僕は物忘れが多い。もちろん36歳という年齢のせいもあるだろうけど、間違いなく、今という時代の情報量の多さが関係していると思う。僕の携帯のアドレス帳は常に容量一杯(800件)だし、テレビ、雑誌、Webにはイメージや情報が溢れている。飛行機に乗れば、どこへでも行って実際に見ることもできる。もしも「生涯イメージ接触数」なんて指標があったら、僕らは人類史上ダントツに違いない。

僕はそんな時代のもの作りを考えながら、編集という方法がずっと気になってきた。元はといえば、自分がクラブミュージックという、リミックス、カバー、サンプリングなど、編集があたりまえな中で育った事もあるし、世界をカメラで写し(コピーし)、一枚一枚の断片を編集して全体をつくる写真というメディアから表現を始めた事も関係している。

そんな中、安易な「オリジナリティー」、「創造とはゼロから作りあげるものである」ということには疑問を抱いてきた。むしろ、創造とは既にあるものの「組み合わせ」であり、身の回りに溢れるイメージや情報をどう編集するかが鍵なのではないかと。そして、W・ティルマンス(写真家)、M・カテラン(アーティスト)、ジョルジュ・ペレック(実験文学)、都築響一、松岡正剛(編集者)、など……ジャンルに関わらず、独自の編集法で新しいものを作る表現者たちに惹かれていった。以下は、その頃メモしていた言葉の一部である。

「写真とは断片にすぎない。私たちはいくつもの一瞥を、断片を蓄積する。私たちの全員が、ただちに思い出すことのできる何百という写真映像を心に貯えている」(スーザン・ソンタグ『写真との対話』より)

「君は図書館を持っていて、時々君はその中のタイトルについて、あれよりこれがいいとか思ったりする。すべてはそこにあるんだよ。だから君はそれらを動かし回すんだ、何か新しい関係を見つけようとしながら。(マウリッツォ・カテラン『PLAY LIST』より/著者訳)

古今東西の膨大なイメージストックとともに生きながら、そこに新しい関係を見つけ、組み合わせていくこと。TSでインタビューしてきた表現者の人選にもそんな「編集」というキーワードが横糸のように編み込まれている。

DJムードマンは、様々なジャンルの曲を選んでつなぐことで、音楽という新しい体験を作っている。松本圭介さんは、仏教を新しい視点から見直すことで、そのイメージを作り直す。2007年には仏教雑誌まで創刊してしまうなど、まさに僧侶/編集者である。富井大裕さんは、身の回りにあるモノを独自のルールによって組み合わせることで彫刻を作り、内沼晋太郎さんは、本を選ぶ、編集するということによって、人と本の新たな出会い方を提案している。

編集というのは、自分を一旦外に開いて世界に触れ、自分というフィルターを通して吐き出すことだと思う。編集者、後藤繁雄さんの言葉で言えば、それは「世界と自分の往復運動」だ。

一方で、インタビューをしながら感じていたのは、Googleを始めとするネットが普及した今、編集の意味そのものが問い直されているのではないかという思いだった。

そもそも「検索」が使える今、情報を多く持っていることの価値は(それを血肉化していない限り)減ってきている。また、誰にでもある程度の情報が手に入るので、それを適当にセレクトし、コーディネートするだけで、それなりのものは出来てしまう。だけど、単に情報を「整理」しただけのものや、機械の部品を組み替えるように、既存の価値を組み替えただけのものにはドキドキしない。引用と折衷のポストモダンは、既に僕らの日常になっている。

むしろ、DJムードマンは、ネットによって情報が行き渡るようになってしまった結果、人が互いに何かしら影響を受け合ってしまい、強烈なオリジナリティーをもつ「孤高の人」が生まれにくくなったのではないかと言う。

そんな今、本当に価値のある編集や創造はどこから生まれるのだろう。

僕は逆に、誰かに編集されたもので溢れているからこそ、編集で作れない何かー動いているもの、生きているもの、リアルなもの、見えないもの、一つしかないもの……に直接触れることが重要になってきている気がする。自分の五感で触れ、そこで生まれる思いや感覚に耳を澄ますこと。自分の中に溜まったものをじっくり咀嚼し、編み上げていくこと。

コラージュという編集手法で作品を作っている永戸鉄也さんは、「人の手で編集されたものは見たくない」と言っている。実際、テレビも、雑誌も、映画も極力見ない「脱映像生活」を送っているらしい。

ディレクターの竹内スグルさんは、ものを作る上で一人の時間をもつこと、自分の手で探すこと、自分の頭で考えることの大切さを語る。彼は冬の間ずっと雪山にこもってスノーボードをしているが、実は大半の時間乗っているリフトの上で、一人で考える時間を大切にしていると言う。

もちろん、彼らも仙人みたいにずっとこもっている訳ではないし、彼らなりの方法でリアルなものに触れ、それを自分の内側で咀嚼する状況を作り出そうとしているのだと思う。

村上春樹氏はよく自分の創作について語る時によく「井戸」のたとえを使う。創作とは深い井戸を覗きこむように自らの内側に目を向けることで、それを辛抱強く続けることで、自分でも意識していなかった場所への通路が開けることがあると言う(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』)。

結局のところ、情報が溢れる今の時代に(いや、昔からそうかもしれないが)、本当にオリジナルなものは一人一人の中にしか残されていないのだと思う。テクノロジーによって「世界中の情報を整理し尽くす」ことを掲げるGoogleとの違いは、そこに介在する「人」にある。そんな中で、作り手がどこまで自分の感覚を信じて、内側の「井戸」や「図書館」に降りていけるかが問われているのだと思う。当たり前のようだけど、僕は今、ただ、そう感じている。

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リアル

TSでは、常にリアルなものを大切にしています。リアルとは既成の意味に縛られない世界そのものであり、優れた表現と同様に、無数の意味に縛られた私たちを解放し、世界を新鮮な眼で見られるようにするものだと思います。私たちは、そんな時代のリアルなものに出会い、そこで得たものを発信していきたいと思っています。

コラム「意味から解放するリアル」(近藤)

意味から解放するリアル

近藤ヒデノリ

僕らは日頃から、様々な「意味」とともに生きている。仕事とは、結婚とは、人生とは、世界とは……人は物事に意味をつけることで、世界というカオスを整理し、生き甲斐や、心の拠り所にしている。大人になるということは、様々なものに意味づけしていくことだ。一方で、意味は僕らの「見る視点」を規定してしまう。よく、「人生には意味がある」とか言うけど、それは言ってる本人がでっちあげているだけで、人間という生物が生きることには元々、意味も目的もない(あるとすれば、子孫を残すというぐらいだ)。

ジャンルに関わらず、優れた表現というのは、そんな無数の意味に縛られた僕らを解放し、世界を新鮮な目で見られるようにしてくれるものだと思う。

田中功起は自身のインストラクション作品(文章で指示をする作品群)についてこう語る。

「僕のインストラクションは、世界を違ったように見るためのきっかけみたいなもので、あとは応用というか、それぞれの人が自覚的に世界を豊かに(そういう意味では、僕とは違ったように)見たとしたら、あっちこっちで面白い事態がたくさん起きているってことで、なんだかアナーキーな感じがしませんか」

階段を転がり落ちるオレンジ、フライパンの上で弾ける水滴、点灯しつづける無数の電灯…田中功起の最近のビデオ作品には、意味もストーリーもない。それぞれは、ただ、現実世界の断片なのに、なぜか見ていて飽きない。どこかほっとする、癒しの感覚。世界の不思議さをじっと見ていた子供の頃の目線を思いだす。

あるいは、広告界で2006年に話題をさらったソニー「BRAVIA」のCM。サンフランシスコの街で、実際に、20万個のカラフルなスーパーボールを跳ねさせたという映像で伝えたかったのは、もちろん「色が鮮やかなテレビ=ブラビア」いう意味だが、その魅力はCMというまさに「意味に縛られた世界」に、ただ跳ね続けるスーパーボールという「意味のなさ」が入ってきたところにある。

「意味のなさ=リアル」と置き換えてみてもいい。世界とそこに生きるリアルな人間という生命の不思議さ、面白さをそのまま表現すること。生きているということの筋書きのなさ、過剰さ、目的のなさと暴力性。それでも人はただ、生きているだけで価値があるということ。

僕がこの原稿をタイで書いている最中、アーティストの新野圭二郎からメールが次々と送られてきた。彼がCET07の中で行っている新作アクション、『男は丸3日間、穴の中に入る事を決意する』のリアルタイム中継だった。早速webを見ると、一人の男が土の地面に掘られた穴に入り続けている。そして実際に男は3日間、穴に入り続けたと言う。

この話を聞いて思い出したのは、ディレクターの竹内スグルさんがレミオロメンのPVをつくる時に、歌詞の世界観をもとに提示したという2つの案だった。「3日間、同じ場所に立ち続ける」「一曲の間、海で溺れ続ける」という、人生の辛さと不条理さを凝縮したような選択(笑)……結果としてレミオロメンは、「短くて済むから」後者を選び、荒れ狂う波の中で溺れ続けることになったと言う。

ファッション写真という分野でモデルの動きの中の一瞬を撮るトクヤマムネタカも、生のままにこだわる。「何もしない勇気って必要だと思うんですよ。みんな不安だからメイクでも何でもやってしまって、生のものを潰してしまう。料理と一緒だと思うんですよ。本当は刺身が一番おいしいのに」

僕自身、NYでコンセプチュアルアートにハマっていた自分が東京に戻り、TSを続けていく中で、徐々に、意味自体を無効にするようなリアルなものに惹かれていっているのを感じる。

どこで読んだか忘れたが、人間は有史以来、神話的世界観、宗教的世界観、科学的世界観という3つの段階を経て進化(?)してきたと言う。科学的世界観というのは、西洋発の理性をもとに自分と世界を切り離し、客観的に見る世界観だ。だけど、世界を観察し、支配し、変えていく対象として捉えるこの世界観によって科学や文明が発展してきた一方で、人はそれまであった世界のつながりを失ってしまい、その結果が昨今、環境問題として顕在化しているとも言える。

そんな中で今、少なくない表現者たちが理性や意味では捉えられないリアルなものへ向かっているのはなぜなんだろう。もちろん、単なる流行の一つかもしれない。webの普及によって人々の本音や真実があっという間に広まるようになった状況も関係しているだろう。でも、より長いスパンで見れば、3つの世界観を経てその限界が見えた今、再び、自分と世界の失われたつながりをとり戻そうとしているのかもしれない。そして、それは元をたどれば、言葉に重きを置かず、世界や自然への畏怖の念をベースにした東洋的な世界観だ。

ぐるりと周り、今、日本からそうした表現が生まれ始めていることを面白いと思う。

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場所

TSに、TOKYOという文字を入れたことは、自分たちの住む場所から今、できることを考え、未来へ向けてアクションを起こしていこう、という決意でもありました。私たちは「Think Global, Act Local」の精神で動き続けると同時に、今、この場所に再定住し、多様な価値観が共鳴しあうコミュニティーを作っていきたいと思います。

コラム「ここという地域に“再定住”すること」(米田)

身体感覚

TSでは、世界で一番ローカルな場所は、私たち自身の体だと思っています。世界で、社会で、身の回りで溢れる情報の海の中で、私たちは自分の身体感覚に耳を澄ますことを大切にしています。外部がいくら揺れようとも、世界の中にある唯一の体の中に、私たち自身の源:SOURCEがあると信じています。

コラム「「私」の感性と日常をはぐくむこと」(米田)

TSメンバ−には、元々旅好きが多くいますが、私たちはネットが普及して「世界が狭くなった」と言われる今だからこそ、実際にその場を訪れて体験することを大切にしています。私たちが実際に人に会いに行ったり、アートリップやアーストリップなど旅の企画をするのもそんな理由からです。自分を開き、外との交流を、新たな出会いを楽しむ。私たちはこれからもそんな旅を続けていきたいと思っています。

コラム「旅についての覚え書」(近藤)

旅についての覚え書

近藤ヒデノリ

自分も昔バックパッカーだったせいか、海外をひとり旅したことのある人に会うと、どこかほっとするというか、心が和む。匂いの違い。ムードの違い。そういえば、先日久しぶりにテレビに出ていた中田英寿の表情が少し柔和になっていた。自由で、大らかな感じ。海外を旅していると日々、生で異質な価値観に出会うから、「人と人はそもそも違うのが当然」という態度になる。自分を認め、相手も認めている。そういう旅人といると、なんだか自分も自由でいられる気がして気持ちいい。

TSでインタビューをした伊藤剛さんが、旅をしている中で、美味しい食事や可愛い女の子の話も、政治や国際情勢のようなシリアスな話も同じテーブルの上で語れる気持ちよさを語っていた。とらわれないこと。「旅」は、「自由」とか、そのための「解放」や「逃走」と結びついている(ちなみに、僕はジェット機が飛び立つ時の解放感がとても好きだ。そして、まだ機内で煙草が吸えた頃は、その直後の一服が最高だった)。

ビートニク。ボヘミアン。ポール・ボウルズの亡命者のような旅、金子光晴の逃げるような旅、藤原新也の『沈思黙考』の旅、沢木耕太郎の真面目な旅、人に会いにいく小林紀晴の旅。旅の仕方には、その人の個性が表れる。旅とはイメージであり、思想であり、生き方だ。今とか、こことか、くだらない常識に絡めとられる前に自分から動いてしまうこと。固定から逃げ続けること(浅田彰の『逃走論』)。中心からずれ続けること。デリーヴ(彷徨)すること。フランスのシチュエーショニストのように。

一方で、逃げ続ける旅につきまとう1つの場所への無責任さや、旅という言葉のもつロマンチックな響きと安易な自分探しには要注意。後藤繁雄さんも最近「NOMADISM」の出版トークショーで言っていたが、旅というのは、限られた人にだけ許された特権だということ(そういう僕もこれを書いている今、出張でタイにいる)。今でも、自分の生まれた土地から出られない、パスポートさえもてない人は大勢いる。エキゾチズムという名の搾取、観光による自然破壊……そういうことを自覚しているかいないか。旅に出て変わることもあるし、変わらないこともある。旅に出て「何かが見つかった!」なんて嘘くさすぎるが、それでも旅はやめられない。

TSで会ってきた表現者たちにも、先の伊藤剛を始め、旅好きが多い。秋山さやかは、旅先で歩いた感覚と記憶をカラフルな糸で表現し、木村友紀は旅で拾い集めたモノから作品をつくる。放浪中にチベットの風景に原風景を感じた高田洋三は、日本に帰って全国の風力発電施設や「ミニ地球」などを撮り歩き、下道基行は、ドキドキする戦争の遺跡の風景を求めて日本中を周り、今はパリにまで行ってしまった。在本彌生は、今、どこにいるんだろう……。移動し続ける人同士が出会えるという偶然、必然。TSも、そんな非日常を求めて旅をしているようなものだ。

旅を通して得られるもの、移動している中で見えてくるものって何だろう?肉体の移動と想像力の相関関係。彼らは旅の中で体ごと移動することによって、常に入ってくる新しい刺激を五感で感じ、咀嚼して、形にしていく。外界へのレスポンスとしての表現。そんな意味で、自らの内側に入りこんでいく表現者とは対極にいるのかもしれない。旅を通して日々、自分じゃないものになり、自分に戻ることの往復運動。そして、そんな動きの中で常に形を変えつつ、あり続けるのが自分というものなのだと思う。

それにしても、人はそもそも、なぜ、旅に惹かれるのか? 最近読んだ『生物と無生物のあいだ』の中で、福岡伸一氏は生命を次のように定義する。「生命とは、動的な平衡の流れである。」と。人間が本来的に動的な存在で、内と外が常に出入りを繰り返し、絶妙にバランスを保ちながら生きているということ。旅とは、生物としての人間の性質そのものなのだ。「じっとしていると自分の中の水が淀んで行くような気がする」と書いていたのは、たしか、藤原新也だった。僕自身、その言葉がなんだか印象に残っていて、3年おきくらいに引越しを繰り返してきた(もちろん、それだけが理由じゃないが、住んでいる場所ごと移動するのは、手っとり早いリフレッシュ法ではある)。

とはいえ、旅に失望はつきものだし、働いていればそう簡単に旅はできない。だけど、わざわざ遠くへ行かなくても旅はできる。「旅をするだって?旅をするためには存在するだけで十分だ。」と書いたのはポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソア(『不穏の書』)だが、肉体的な旅でなくても、想像の旅、思考の旅……精神的な旅なら無限にできる。

「ひとつの筒にはまりたくないんだよね」と言っていたのは、様々な肩書のあいだで活動を続ける知人のデビッド・ディヒーリさんだった。

自分の場を決めつけず、常に心も体も動的な状態におくこと。自分を開き、外との交流を、新たな出会いを楽しむこと。僕自身、これからも、そんな風に「旅」をしていきたいと思う。

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これからを面白くする31人に会いに行った。

(PIE BOOKS刊)

2005年3月3日にスタートし、書籍として出版することを目標に100人の表現者へのインタビューを目指し、記事を掲載し続けています。書籍化第一弾として、『これからを面白くする31人に会いに行った。』を2008年8月にPIE BOOKSより出版しました。