高田洋三は、近未来を旅する写真家だ。
2002年に開始した「WIND SCAPES」では、日本各地に点在する風力発電施設を撮影し、それと並行して2004年から開始した最新作「SIM SCAPES」では、青森県六ヶ所村にある「ミニ地球」と呼ばれる生態系実験施設を撮影しつづけている。
撮影者の感情を排した冷静な視線、ひとつのモチーフを決め、繰り返し撮影しつづけるスタイルは日本でならホンマタカシ、畠山直哉、柴田敏雄の系譜に連なるだろうし、「WIND SCAPES」でのタイポロジーの手法は「ドイツ系」元祖、ベッヒャーを彷彿とさせる。高田洋三の写真には、こうした一世代、二世代上の先達たちのDNAが入っている。
では、高田の写真はこうした先達たちと何が違うのか。
写真は、その原理上、「それはすでに、そこにあった」という、過去へのノスタルジーを帯びやすい。古きドイツの給水塔を淡々と撮影したベッヒャーはもちろん、石灰工場を撮影した畠山直哉、柴田敏雄の撮る自然と人工の風景も、過去の人為への批判的な視点に貫かれている。
一方で、高田のモチーフとする風力発電所、「ミニ地球」では、自然と人工は従来のように対立するものではなく、テクノロジーを介して分ち難く結びついている。自然とテクノロジーの新しい関係。地球との共生。そこにあるのは過去ではない、未来へのノスタルジーだ。
高田くんは個人的な友人でもあり、TSでもこれまで何度もポートレート撮影をお願いしたりしてきた。時々会うと、彼は「今週末、また撮影に行ってくるんだ」とちょっとはにかみながら言い、自分で車を運転して日本全国へ出かけていく。今後もまた、彼は淡々としたペースで写真を撮りつづけるだろう。そんな彼に今回、改めてじっくり話しを聞いてみた。
近藤ヒデノリ(TS編集長)
1
ドロドロ時代
高田:今日はちょっと、ここ10年くらいの作品を1冊のファイルにまとめてみたんだよね。
近藤:高田くんのはこの間の「高田のハバ」展(@恵比寿POINT)も含めてほぼ見ているんだけど、初めは1999年のオレゴンムーンギャラリー?あ、これオレゴンのイメージがあったけど、東京にあるんだね(笑)。
高田:うん、そこで「FRAGILE」をやって、その後スタジオビッグアートで学生時代の作品をつくり直したものを展示した。学生の時のやつは、もうちょっと熱い感じの写真だったんですよ。ドロドロしてるっていうか。これは学生時代の卒制で出したものなんだけど(といって、写真を見せる)。
近藤:うわ、ほんとだ、ドロドロしてるなぁー!こういう時代があったんだ…。
高田:そう、けっこう学生の時はそういうドロドロ系だった。写真でいえば、中平宅馬(写真家)とかああいうプロヴォークの時代のが好きだったり…。
近藤:エマルジョン(感光剤)の後がそのまま残ってたりして表現主義的だよね。
高田:そうだね。まわりにモノづくりの人が多かったから、モノへの憧れというか憧憬があって、その時のモチーフがこれなんだけど(アクリルに包まれた薔薇を見せる)。
近藤:これは自分でアクリルに封印したの?高田:うん、自分でつくって、それを写真に起こした。
近藤:これ自体を作品にしたのではないんだ。
高田:うん。これ自体が、時間を止めるっていうか、自然の中身を定着したものとして…
近藤:これ自体が写真っぽいよね。
高田:そう、写真っぽいオブジェ。それをさらに断面をとりだして写真に撮るっていう…。けっこう磨くのに時間かかったりして。
近藤:これがいつ頃なんだっけ?
高田:卒業制作だから、95年かな。
2
チベットへ行ってドロドロ感が抜けた
高田:学生の時から、ストレートフォトのモチーフをずっと探してはいて、今イチ見つからなくてしょうがないから自分でつくったりもしていたわけだけど…。その辺は、半年間の旅行中に撮ったもので、その時にさっきのドロドロ感が抜け落ちたんだよね。
近藤:ちょうどそのあたりを聞きたかったんだよね。高田君の今の写真って「WIND SCAPES」にしても「SIM SCAPES」にしても「FRAGILE」にしてもドロドロ感はまったくない。チベットへの旅でドロドロ感が抜け落ちたきっかけを教えてくれない?
高田:旅はずっと憧れていて、「印度放浪」とか、藤原新也が好きだった。でも、旅の中で、感覚的な発見と挫折の両方があった。1つに藤原新也的な世界みたいな、単純に「遠くに行けば何かがあるんだ」っていうのが、多少甘いというのが分かった。もう情報がすでにインプットされているので、まっさらなところで何か新しい発見をしたりするっていうのが非常に難しいっていう。「もう一枚、フィルターを通してしか、ものを見ることができないんだな」っていうことを再確認した。
その中でも割と純粋な驚きをもって見れたのが、チベットだった。それは単純に自分が北海道出身、雪国で北の出身というので、その風景にはまってしまったんだよね。自分の原風景に近いものがあったというのもあるんだけど。
近藤:僕も同じようなところへバックパックで旅行したりしているから「フィルター通してしか世界を見れない」っていうことを再認識したりしてたんだけど、違うのは、チベットに関して僕は原風景というよりも、世界の果てのように感じて、原風景といえばカトマンズの方が近いなと思ってたんだよね。
高田:原風景というか、なんか身に染みたんだよね。ほんとに確かに「果て」っていう感じで、モノがモノとしてゴロンとあるっていうか、あっけらかんとした感じがあって。その中に自分がいて、自分が風景と対峙しているという感覚があって。まあ、4000メートルの高いところにいるとか半年間の旅行中とかいろんな条件があったから、たぶん、普段使ってないような脳みそが動いたりとか、どこかトリップ感覚みたいなのもあったかもしれないけど。近藤:高山病とかなった?
高田:お腹が膨れたりはしたけど。そんなに重度にはならなかった。
近藤:おれは大変だったよ。3日くらい吐きつづけたりして。まあ、でも、そういうカラッとした中でドロドロ感が抜けたのかもしれないね。
3
解釈を跳ね返す風景
高田:すごい静的なとこなんだけど、その表面的な静かさの中にアクティブなものがあるというか、自分とモノ、風景との関係としてダイナミックなものがある。すごい空気が透明というのもあるんだけど、すぐ目の前にごろっと転がっている石と、遠くにある岩肌が同じ質感で見えている。そういう意味で書き割り的なところもあるんだけど、すべては均一にあるっていうか、光がまんべんなく、均等に刺さっている。
近藤:あそこは光がほんとに透明だよね。自然パンフォーカス。
高田:でも、神秘的というのとはまた全然違うんだよね。神秘的なものってやっぱり光があって影の部分があって、影の部分に人間の想像力が入り込んで発生するものっていうのがある。そういう意味では、この風景はまったく反対で、すべてがもう見えるままというか。逆にいろいろ解釈しようとしても、そんなのはまったく跳ね返されてしまう。その時に感じたのは、自然っていうのは人間に対して無関心なものだっていうことだった。何でわざわざ、こんなところに住んでいるんだろうっていうような…
近藤:何にもないところに延々と道が続いていて、電線だけが通ってたりするよね。
高田:逆に、こんな過酷な状況に生きている人間に対して、ばかばかしくもおかしくも、悲しさとか、愛おしさみたいなのを逆に感じるっていうか。バスとかで延々と同じような道を走っていて突然乗客が停めて降りて、山の方にスタスタと歩いて行ったりするのを見て、何を根拠にこの場所を見つけたんだろうとか、どこへ行くんだろう?って思ったりして。
あと、むこうの家って四角くくて、僕らから見るとモダンというか、幾何学的な形だったりするじゃない? そういう建物が何もない孤立した自然の中にぽつんとあるのを見たりすると、おかしいというか、愛おしいっていうか。
高田:両極的なものがある風景。チベットでも風景としてはそうなんだけど、逆にお寺とか、つくりものの中にはすごく濃い闇の世界がある。宗教の世界とか。過酷であるがゆえに、その答えとして、宗教とか、物語とかの濃い世界をつくっているという。
それで、逆にこういう世界に人間を放り込んだらどうなるかというところに興味がある。物語性がなければ人は生きてはいけないから、そこでどうするのか…。たぶんそれがいちばんわかりやすく表れているのが、いちばん最近にやった「SIMSCAPES」かな。まったく真逆な世界ではあるけど、そういう何もない世界に人間を放り込んでいるという意味で。
4
人工物のもつ暴力性:WIND SCAPES
高田:これが今年また撮ってきたものなんだけど(といって「WIND SCAPES」を見せる)
近藤:この風車はどれくらいのサイズがあるの?
高田:サイズ的には以前に撮ったやつより小さいんだけどね。一翼15メートルくらいかな。前のは30メートルくらいあるんだけど。
近藤:単純にこれだけ重そうなものが、風の力だけで回っているというのはびっくりするよね。
高田:これって、風とか、それを転換してエネルギーになるっていう地球の見えないエネルギーを顕在化させる装置なんだよね。しかもその風のエネルギーは自分らにもつながっている。今回、雑誌に載せた時のタイトルで「日常の片隅にある風景」ってつけてくれたんだけど、もしかしたら自分たちにも関係のある風景。それを芹沢さんは「未来の予感」って言葉で言ってくれたのかな。
近藤:前よりもずっと近づいて撮っているよね。前はもっと遠景から撮ったものが多かったよね。この2つの撮り方は並行してやっているの?
高田:最初は形式を決めて撮ってた。やっぱり風車ってどうしてもフォトジェニックなモチーフだから、叙情的に流れないように形式を決めてた。しかも一カ所だけじゃなくて数カ所撮ることによって、そのモチーフよりも背景の方が見えてくるようにと。でも段々、撮りたい時の気配というか(風車という)モノ自体が分からなくなるように撮るようになってきている。遠い距離で見た時と、見上げるぐらいの距離で見た感覚って全然違うから。音もあるし。遠景っていうのは、実際にこのモノを見たことがない人が感じるのに近くて、牧歌的で、地球にやさしいエコロジカルなイメージとしてあるのに対して、実際に近づいていくと、音とか、モノの存在感が怖いくらいに感じる時があって、そういうイメージのギャップが面白くて撮っているんだけど。
近藤:以前に高田君のPOINTでの展示を見た人が、「男の子っぽい」って言ってたらしいけど、僕もそういうところは感じてるからあえて聞きたいんだけど、高田君はガンダムとか好き?
高田:実は…ガンダムとか大好きなんだよね(笑)。風車とか撮ってる時も、「うわー!ガンダムだーっ!!」と思って撮ってるもんね。カラーリングがまた、ガンダムっぽいんだよね。白地にオレンジとか入ってて。小学生のころ、ガンプラなんかもつくってた。近藤:やっぱ、そうだったんだ(笑)
高田:上に兄貴が二人いるんで、僕はアニメが見たいのに兄貴に「俺たちの旅」(中村雅俊主演による青春ドラマ)とか見させられたり。そこから満たされない歪みみたいなのが発生しはじめたのかも(笑)。
近藤:そういえば以前に話した時に、人工物の持っている暴力性みたいなものに惹かれるって言ってたけど。
高田:人工物が立ってしまうことによって風景がまったく変わってしまう、というのは暴力的な部分もあるだろうなと思う。視覚的にはそうなんだけど、テクノロジーってそもそも拒むことが出来ないもので、知らず知らずのうちに環境の中に介入してくるもの。自然を変えていってしまうもの。変わってしまった後では、変わる前の風景との違いも分からなくなってしまったりもする。そのときに見えてた風景と、その後の風景というのはまったく違って見えてくるものだろうと。そもそも写真ってのがそういうものだと思う。
近藤:ちなみにこの風車って日本にどれくらいあるの?高田:600本くらいあるらしい。
近藤:今までに、何枚くらい撮っているの?
高田:カット数として自分で納得して見せられるのは20枚くらいかな。まだこんなもんか、ってショックだったりもするけど。
近藤:一カ所に行って、何枚くらい撮る?
高田:一つの場所につき数枚撮ることもあるけど、基本的には一カ所で一枚かな。
近藤:あ、風車マップ!おおーっ。いっぱいあるねー。
高田:JAFのマップなんだけど、最初にこれを見て知ったんだよね。それで北海道にもあるな、と実家に帰ったときに見に行ったのが最初かな。
5
写真のようにしか見られないということ
近藤:ちょっと戻るけど「写真が出来る前は、写真的な見方はなかった。そもそも写真がそういうものだ」っていうところをもう少し聞かせてもらえる?
高田:写真ができる前は、下界に対してすべて意味づけをして見ていたんだけど…
近藤:物語をつくるとか?…なんだか難しくなってきたね(笑)。
高田:あんまりそういう風にはもっていきたくなかったんだけど(笑)。でも写真を通すことによって内面の発見というのがあったんだよね!
近藤:あ、声が裏返ってる(笑)。
高田:それによって、写真のように外を見るっていう逆作用が生まれてきた。外面に対して無関心になるっていうか、内面の方からの投影によって見るっていうようになってきた。
近藤:さっきの「フィルターを通してしか見られない」ってことだよね。
高田:そうそう、それがどんどん進んでいくと、もうオリジナルとコピーとの境も無くなっていって、何がオリジナルかも分からなくなってくる。コピーのコピーから世界が成り立っているっていう。特にインドとかで人が焼けてるところとか見るじゃない?そういう死とか人間のいちばん深い部分でさえ、イメージを通して見てるってのが分かっちゃったから、それがすごいショッキングだったのかな。たぶん、こういう風景とかも今、まさに日本各地で広がっているわけだけど、見慣れてくると、また新しいフィルターがひとつ増えてくるのかなと。
近藤:実は僕も初めて、高田君のこの「WIND SCAPES」を見た時に、以前に村上龍の「希望の国のエグソダス」を読んで想像してた風景が、「ここにあった」という感じたんだよね。これもひとつのフィルターだよね。
6
長いスパンの中で撮り方を変えていく
高田:こっちの方は、圧倒的にでかい無垢なオブジェとして見られる、そういう面白みがあると思うんだけど、ただそれを写真作品とした時に、被写体の面白さだけに頼っているというのは作品として弱い部分もあると思うんで、できるだけ長いスパンで写真を撮りつづけているっていうのもあるかな。もうちょっと自分の中で踏み込んでいくっていう。
近藤:そういうアプローチは「SIM SCAPES」にも共通してるよね。
高田:僕のスタイルって時間をかけて撮っていく過程で、自分の中で更新して撮り方を変えて行くっていうのがある。キワモノ的な面白さだけじゃなくて、いかにその中で面白い風景を発見するかっていう。「SIM SCAPES」はああいう箱だから特にわかりやすいんだけど、何か枠組みを一回決めた中で何ができるかっていうアブローチの仕方が僕には向いているみたい。だから微妙だけど、撮り方もいろいろ変わっていくんだろうし。
よく作品を人に見せる時に、現代美術の人とかって「自由に見てほしい」って言うのがあるけど、観客にそれを要求するのであれば、まず自分でそういう、モノを違う視点で見る努力をしてからじゃないと、勝手に撮って「自由に見てね」っていうのは、かなり無責任じゃないかと思う。ただ別に、自分の考えを押しつけようってのはないんだけど。
7
MY SOURCE マイ・ソース
亜細亜放浪
半年間香港~中国(雲南・ウイグル・チベット)~ネパール~インドの旅。特にチベットは衝撃的だった。今の作品の原点。
119
筑波大学総合造形コースの2~3年生でシェアするアトリエ部屋。みんなが自由なジャンルで制作を行う中、たくさんの影響を受けた。
柄谷行人
写真論なども含め、風景論についての原点がここに集約されている。
POINT
デザイナー、建築家と3者でシェアした事務所兼ギャラリー。美術とデザインの違いを感じた(後述)
現代美術・映画
そもそもなんで美術の範疇で写真を発表するのか。それは美術に影響を受けたし、好きだからでしょう(…後述)。
119
筑波大学総合造形コースの203年生でシェアするアトリエ部屋。
みんなが自由なジャンルで制作を行なう中、たくさんの影響を受けた。(高田)
近藤:「119」についてもう少し教えてもらえる?
高田:筑波大の総合造形ってかなり出入り自由な学校で、規制も緩いところだった。元々筑波ってみんな自転車で行けるくらいのところに住んでるから、夜中にもふらっと来てそこに行けば誰かいるからって集まったりしてて。同じ学科とはいえ、みんなやってることはばらばらだから、写真やってるのも自分だけだったし。他のコースからはみ出ちゃったような人が集まってた。
近藤:タムラサトルさん(美術家)とかもそこで一緒だった?
高田:タムラくんもそうだし、作家やってる人でいえばクワクボさん(クワクボリョウタ/メディアアーティスト)とか、児玉幸子(アーティスト)さんとかもいた。(といって、児玉さんの作品写真を見せてくれる)
柄谷行人「日本近代文学の起源」
写真論なども含め、風景論についての原点がここに集約されている。(高田)高田:まあ、1冊の本をじっくり半年間の旅行中に携帯して読んだ、ということで。
近藤:これ1冊しか持って行かなかったの?
高田:いや、何冊か持って行ったんだけど、そのうちの2冊が柄谷行人だった。できるだけ難しいのを持って行こうと。まあどこまで理解してるかは分からないんだけど、書き方が断定的だから、そこを拾って読んでいっても面白く読めた。
POINT
デザイナー、建築家と3者でシェアした事務所兼ギャラリー。
美術とデザインの違いを感じた。デザインでは常に他者との折衝のなかで
アイディアを形にしていく必要がある。その交渉力は勉強させられた。
またギャラリーでは抽象論でなく、美術とはなんぞやと議論が多かった。
(作品の価格設定とか、あえて場所を無料で提供してアートの展覧会をやる必要があるか、などなど。)
余談だが、美術もデザインも一緒という言い方が、ラディカルでかっこいいという風潮があったが、そもそも美術というカテゴリーが不確かな日本ではそれはいかがなものか。
もちろん一鑑賞者は自由にみればいいわけだが、作品を提供する側から言えば
その境界線を明確化していくことのほうがラディカルのような気がする。(高田)
現代美術・映画
そもそもなんで美術の範疇で写真を発表するのか。
それは美術に影響をうけたし、好きだからでしょう。
[ボルタンスキー、ゴームリー、パナマレンコ、リヒター、クリスト、キーファー、クレメンテ、アルテポーヴェラ、ランドアート、ルイス・ボルツ、エメット・ゴーウィン、柴田俊雄、畠山直哉、ニューカラー、北野武、今村昌平、ベンダース、ジャームッシュ、タルコフスキー、アキ・カウリスマキ、デヴィット・リンチ、ウッディ・アレン、ピーター・グリーナウェイ、ヴァルテル・サレス、エミール・クストリッツァ、アメリカン・ニューシネマ]
近藤:いっぱいあるよね。
高田:特にどれがっていうのはないんだけど、やっぱり影響を受けたっていうか…。自分の作品もやっぱり美術の中で発表していきたいし、有名にもなりたいし。
近藤:ゴームリーはどの辺に惹かれるの?
高田:彼の作品では、物質や身体のもつ重さと、精神的な軽さが同居している感じが好きなのかな。どくとくなユーモアのセンスが好き。
近藤:パナマレンコは?
高田:パナマレンコは自分で飛行機とか気球とかつくったりしてるんだけど、彼の場合は航空力学とかバックボーンがしっかりした上でそういうのをやってるんだよね。僕の場合はまあ、イメージの世界だけど。学生時代、柴田俊雄、畠山直哉、ルイス・ボルツ、エメット・ゴーウィンなど、自然と人工をテーマに、静的な視点で撮る写真家達が台頭してくる時代ではあったし、影響を受けてはきました。
近藤:よくわかる。でもそこにクレメンテときたのはちょっと意外な気もしたけど。
高田:絵画もけっこう好きなんだよね。リヒターみたいなロジカルなのも好きだし、クレメンテみたいな表現主義的なのも好きだね。
近藤:高田くん自身の作品では、どっちかというとリヒター的なロジカルさとか客観性の方が強く出ているよね。前にインタビューした田中功起(TS006)くんが「形式を決めた後にバケツやボールの色を選んだりするフォーマルなところが自分の最後のところ」というようなことを言っていたけど、高田君はそういうフォーマルなというか、絵画的な構図のつくり方については、どう意識してる?
高田:そういう純粋な絵画的な構図を壊したいとは思っていて、方法としては全くアットランダムに撮るという方法と、もう一つは機械的に画面のまん中に対象を置くという方法があって風車のシリーズなんかではそれを意識したりもしてる。標本的に撮ると。
あとは、さっき言ってたように自分の主観をどこまで消していけるか、っていうことで、撮り方自体はすごくニュートラルだと思ってるかな。誰でも撮れるように見える写真を撮りたいかな。主観が入ってくると、見る人がそこで自由に見られないっていう苛立ちがあるから。別にあなたのことが知りたいわけじゃなくて、ただ見たことのないものが見たいってだけで。