019

森田浩彰 (アーティスト) 前半


たとえば、コーラのペットボトルの中にペプシが入っている。
たとえば、2個のプラスチックカップが、倒れたバケツの中で回っている。
たとえば、2本の曲がったスクリューが、壁の隅でゆっくりと触れ合わずに回転している。
たとえば、壁に貼られたコラージュ作品の隣に、その配列が次々に変わるビデオが流れている。

森田浩彰は、そんな作品をつくっているアーティストだ。
その多くは、見慣れた日常のモノを組み合わせたミニマルな形態だが、モノが新たな関係性に組み込まれることによって、えも言われぬストーリーを持ち始める。森田がインタビュー中でも触れていた、デュシャンの「アンフラマンス」という言葉…言葉では定義できなくて、用例としてしか示せないもの。森田の作品は、そういうものが日常のすぐ脇にあることに気づかせる。

「網膜のスリルなんて!」と言ったのも同じくデュシャンだが、美術館に便器を持ち込んだコンセプチュアルアートの元祖は絵画に、網膜という単なる視覚のスリルを越えた、脳そのものへのスリル(以前にTS002で「脳みそへのデザート」とも書いた)を求めていた。
そして、これは、僕がこれまでTSでインタビューしてきた現代美術作家たちの、ある意味偏った人選の理由でもある。映像やイメージが氾濫し、網膜的な刺激にほとんど麻痺している時代だからこそ、その中で単純に、より強烈な視覚刺激を求めたり(昨今のホラー映画)、わかりやすい物語に「感動」を求めたり(オリンピック、韓国ドラマ、ハリウッド映画)することへの、「反網膜的」な意思表示。いわば、「いつまでもこんなままではいけないのです」と言った、デュシャンの意志を継承する作家たちを追ってきたとも言える。

去年末、Nadiffで行われた「芸術の山」討論会では、森田浩彰を含む4人のアーティストを「ネタ系」として、その作品を「ある論理に貫かれた<モノ>それ自体が素材であり、作品の構成要素であり、(…)その論理を形式的に変換したものの提示、というかたちをとる。(…)この変換は、「飛躍」として起こる。(…)飛躍の鮮やかさがそのまま作品の鮮やかな印象である。」と定義していた(林卓行・美術批評)。彼ら4人を「ネタ系」という言葉で括れていたかどうかは、書くと長くなるので省くが、そう、デュシャンが「スリル」と呼んだものは、この「飛躍」なのだ。そして、メジャーアートシーン(そういうものがあるとして)とは別に、こうした異質な指向性を持ったアーティストたちが、数多く現れ始めているのは確かだ。森田浩彰、要注目である。

近藤ヒデノリ(TS編集長)

1

「NEW ORDER」


NEW ORDER、2005、展示風景

近藤:まずこの間展示していた最新作「NEW ORDER」から始めようと思うんですが、あれは壁に並んだ作品の順列組み合わせをつくるという、そのプロセス自体をビデオ作品にしたものでしたよね。普通は作家が壁に展示した最終形だけが展示されてるけど、この作品ではその配置を決めるプロセスと結果(としての配置)が同時に見えている。逆に言えば壁に並んでる作品の配列も、無数にある組み合わせのひとつで、他のすべてもあり得たし、等価であるという風に見える。今回のこの個展、特にこのビデオ作品をつくろうと思った、そもそもの考えを教えてもらえますか。

森田:そんなにすごい考えたっていうわけでもないんだけど(笑)。

NEW ORDER、2005、ビデオ

いつもスタジオで制作していると、ガラクタとか失敗したものとか大量に出るんだよね。そういうのが床にぽんと置いてあるとその上に何かを載せてみたくなるとか…そういう風に毎日、何も考えずに遊びみたいにやってるんだよね。それがある時に作品に見えたりする。そのプロセスってゆっくりなだけに、どれが先でどれが後だったのかは、自分の記憶の中でぐちゃぐちゃになっている。ちょくちょく振り返ったりしてるし。それである時、そうやって自分が何かを勉強する「あしあと」を辿ることができるということに気づいて、それ自体を作品にするのも、ひとつの実験としてありかなと。

近藤:つくるプロセスをまんま見せるのも面白いと思って、それで改めてあれをつくってみたと。

森田:そうそう。スタジオで遊んでても何かが出来たとしたらそれは作品になるわけで、ほんとはそっちをやるための練習として(今回の作品を)やったみたいなことはある、実際やるかどうか分からないけど。でも今回、展覧会をやってみて、結局現場で事前に自分が想像してた通りにはいかなくて。なんでこんな配列を選んじゃったんだろうって(笑)。

近藤:でも、壁にはそうやって選ばれた配列がひとつあるだけど、ビデオで選ぶ過程を全部見せちゃっているから、あれは(壁にあるのは)無数にある配列のひとつにすぎなくて「他にもあり得たかもね」といように、「選んだ」ことの重要性はそんなには感じないよね。たとえばティルマンス(Wolfgang Tillmans・写真家)だと他の配列は見せてなくて「これがベスト」という配列を見せているわけだけど。配列なんてどうでも組み換えられるんだよ、という意識があるのかな?

森田:それはあるかも。その辺の感じが前の作品とは違うかもしれない。

2

独自のルールをつなぐ


Girl and Women、2005、雑誌の切り抜き

近藤:今までの作品は、独自のルールをつくるというのが基本になってたよね。ここにある世界と違うルールをもった世界をつくると。

森田:そのとおり。前のものは、モノとモノや、モノと場所、イメージとイメージとの間に普段はつながらないようなオルタナティヴな関係性を作って、それを作品として発表してたんだけど、、今回の「NEW ORDER」では、さらにその一つ一つの作品ををつなげるルールをつくったんだよね。コラージュ作品がひとつすでに組み合わせの作品だから、それをさらにつなぐ大枠のルールをつくったと。

近藤:違うレベルでつないだと。あと、今回その選ぶというプロセスを全部見せちゃっているということからある意味作家が(作品の最終形を)コントロールしないという意図を感じていて、他の作品でも例えば、コップが倒れたゴミ箱の中で変な感じで動く作品とか、「Dropped light」にしても作品は落ちてきたままのもので、何も手を加えてない、物理現象のままに任せるということと共通してる感じがするんだけど。

Dropped Light、2003
家庭用蛍光灯。サイズ:可変

森田:コントロールっていうのは、何に対してのもの?

近藤:作品を最終的に止めないというか、設定はコントロールするけどそこに偶然性みたいなもの入れるということかな。写真家でいえば映るものを自分で完全にコントロールしないで、映るものの偶然性に任せるということ。

森田:そういうことか。ある種、予定調和的なものを回避したいという意識は働いているのかな。でも作品に対する意見としては、むしろコントロールされていると言われる方が多いし、コントロールされてないと作品にならないかなという意識もあるけど。

3

イメージの皮をめくる


Rainbow Maker、2004、雑誌の切り抜き

近藤:さっき「スタジオで遊んでいて、ある時にこれが作品になると思った」って言っていたように、森田さんの作品は日常のオブジェを組み合わせてつくるのが多いわけだけど、どこまでが日常のオブジェで、どこからが作品になるんだと思います?自分で決めたら、人がそれを認めたら作品だとかいろいろあると思うけど。

森田:むずかしいねー。すごい答えづらいっていうか。時間が経って、「まあ許してやるか」みたいな(笑)。

近藤:仮説として思ったのは、日常のオブジェが新しい配列に組み込まれて、そこに関係性が生まれた瞬間に作品になるのかなってことなんだけど。

森田;そうかもしれない。自分がコンセプトのところで言ってるように、ひとつのルールができて、それが同じものなんだけど、まわりのものから独立したものに見えるようになった時に作品になるのかな。半分この世で、半分あの世に足を突っ込んでいるような。
この間の「芸術の山」討論会でも「幽霊」って言ったように、見た目は同じなんだけど、同じ世界に属していないような。例えば、僕らがこうやって話しをしている時も、いろんな前提(イメージ)を通して話しているわけだよね。共通の言葉だとか、近藤さんがどんな人で、こういうことをしている人だとか、僕と同じ世界に属してる安心感がある。でもそういう前提を取って、近藤さんの生の顔を見えるようにする。そうすると今まで気付かなかった様々なところが見えてきて、「あれっ、なんでこの鼻の部分って赤いんだろう?」とかいろんな怪しいところが見えてくる(笑)。

近藤:あ、バイク用の眼鏡の跡…(笑)。

森田:(笑)イメージの皮をめくるというか。そういうことが作品でできたらなと。

4

MY SOURCE マイ・ソース


ファイブスター物語

あまりに多くのものがつまってる。まさに僕にとってのバイブル。

フェリックス・ゴンザレス・トレス

一番好きなアーティスト。
スーパーミニマルな曲でラブソングを歌ってるところが最高です。

マルセル・デュシャン

作品を見てもぜんぜん感動しないのに、なぜかいつも立ち戻ってしまうアーティスト。

Bゼミスクール

ここでの多くの出会いがアーティストとしてのベースになっています。

ブランキー・ジェット・シティ

未だに彼ら以上にかっこいいバンドに出会っていません。


5

スーパーミニマルな曲でラブソングを唄う:FGT


Screws、2002
曲がった木ねじ、モーター。サイズ:可変

近藤:マイソースの中で、一番好きなアーティストとしてフェリックス・ゴンザレス・トレス(FGT)を挙げてますよね。スーパーミニマルな曲でラブソングを唄っていると。僕らの世代ではフェリックスを源流とするアーティストは多い気がする。以前にインタビューした田中功起(TS006)くんも、彼を下敷きにした論文を書いてたし。

森田:そうだね。フェリックスはちょっと特別な存在かも。ちょっと上の世代でも、ロンドンでマシュー・リッチー(アーティスト)とかもレクチャーに行ったときに「オレの一番好きなアーティストはフェリックスだ」とか言ってたし。アーティストに認められてるアーティストかもね。

近藤:僕も彼の作品で「Perfect Lovers」というのが好きで、実は勝手に家に時計を2つ並べてレプリカつくったりしてるんだけど(笑)。実は、森田さんの「Screws」とか「Two Cups in Dustbin」を見たときに、「Perfect Lovers」に近いものを感じたんですよね。すっごいミニマルなんだけど、そこにエモーショナルなものを感じるというか、笑えるというか。実際、フェリックスには影響は受けていると思います?

Two Cups in Dustbin、2001
ゴミ箱、扇風機、発泡スチロール製カップ。サイズ:可変

森田:すごい受けてるんじゃないかな。まあ、すごいアーティストだからね。あの作品(「Screws」)に関しては、2つの見慣れたものがある特殊な関係を結んだ時に、見る人の想像力を刺激すると。そういうものは共通してると思う。
彼(FGT)の場合はゲイだっていう前情報みたいなものがあるから、そこに(作品が)つながってくるけど、そういうのがなくても「スーパーミニマルな曲でラブソングを唄う」ってのは成立すると思うんだよね。それって彼がやってることを自分なりに捉えてるわけだけど、作品から醸し出される香りみたいなものが、自分だけじゃなくて多くの日本人が好きなツボなんじゃないかな。

近藤:すっごいミニマルでコンセプチュアルで即物的なんだけど、そこに恋人や父親が死んだ悲しみとかパーソナルで感情的なものが入ってる。

森田:パーソナルな事柄をもとに表現するアーティストっていっぱいると思うんだけど、多くの人が自分のオブセッションだとかフェティッシュなものを押しつける感じになりがちな気がするんだよね。もちろんそれが有効な手段であり、いい作品もいっぱいあるとは思うけど。彼は全然そういうものがない。ティルマンスとかもそういう意味で近いものを感じる。

近藤:ティルマンスは、フェリックスみたいにミニマルに削ぎ落とすというよりも、たくさん見せる中にパーソナルなものも嫌みなく入ってるよね。でも森田くんもそうやって作品にパーソナルなものを入れていきたいっていう意識はあるの?

森田:直接的にではないけど、何かを選ぶっていう作業になってくると、「これよりこれが好き」っていうのも過去の経験に根ざしているし、そういう意味においては選択のどの一点をとってもパーソナルなものは入ってくると思うし、それの集積として作品ができている訳だから、作家という個人が入り込んでしまう事は避けられないんじゃないかな。

6

ファイブスター物語、年表、データベース


Toilet Roll (green)、2001
緑のトイレットロール。サイズ:可変

近藤:これは全然知らなかったんだけど、ロボットもののアニメなんですよね。

森田:漫画なんだけど、とにかくいろんなものが入ってるんだよね。フューチャーソースに書いたマシュー・バーニーの「クレマスター」も1から5までって全然順番どおりにいかないけど、これもストーリーが全然順番に従ってない。あるエピソードがあって、それがいきなり100年後の別のエピソードに飛んだり、逆に過去に戻ったり。一つのエピソードで主人公クラスの人が、次のエピソードでいきなり雑魚キャラのように死んでいなくなったりと、僕たちが信じてるようなルールがぐちゃぐちゃになっている。同じ人の性別が普通にかわったりもするしね。
でも、そういう一見するとむちゃくちゃな事を支えているのが最初に作者がつくった「年表」というもので、歴史の年表みたいに「何年に何が起きた」みたいなのが書いてある。その年表は作者にとっての最低限のルールになってて、年表さえ守れば漫画の中では何が起こってもいいというようになってる。それで年表に書いてある事件ががいろいろ起こってくるんだけど、「この事件ってああいう原因があったのか」というような事が数百年単位のスパンで描かれたり、とにかく物語の中での価値観の変わり方がすごい。
それと、これは作家がライフワークのようにやっているから、その時々で彼の興味があることがエピソードの中にどんどん入ってくる。彼の現実世界のある種の受け皿として「年表」があったりもする。

近藤:今の話を聞いていて、東浩紀(批評家。文中の概念は「動物化するポストモダン」から)が言っている「データベース」って言葉を思い出したんだよね。
これは、モダンの時代には大きな物語があって時代が進んでいたけど、ポストモダンになってその大きな物語が失効しちゃってからは「データベース」だけが背後にあって、その中から勝手に組み合わせて無数の小さなストーリーが生まれてきているんだと。「年表」ってのが、ちょうどここでいう「データベース」にあたるのかなと。森田くんの「NEW ORDER」にしても、配列というのは自由自在だよ、ということが作品になっていう点で関係があるように思えるけど。

森田:そうだね。けっこう「年表」の話しと「NEW ORDER」の話しはつながっているかもね。

近藤:「クレマスター」もほんとなんでも入ってるよね。彼の場合は明示される「年表」のようなものはないけど、ストーリー自体がフェミニズムとか神話とか宗教とかゲイカルチャーとか、いろんな要素が混在していて読みようによってはどうにでもとれる。

森田:そういう意味でもマシュー・バーニーの「クレマスター」は「ファイブスター」と近いなと思ったんだよね。あ、あと「ファイブスター物語」は原作の他に、副読本みたいなのが多いのも特徴で。

近藤:なんかエヴァンゲリオンみたい。

森田:エヴァンゲリオンのように閉じてないんだよね。どっちかというとガンダムの方に近いかな。ガンダムって富野由悠季がつくったメインのストーリーがあるけど、いろんな人がガンダムのサイドストーリーを考える余地があるっていうか、もっと世界の懐が広い感じかな。

7

「時計」の作品と「年表」


CLockwise (仮称)、2005-、ビデオ

近藤:話しは変わるけど、この間「芸術の山」(後述)でちらっと見せてくれた、24時間を全部スタジオにある道具でつくるっていう「時計」の映像作品は今、つくっているの?

森田:最近忙しくてあんま出来てないんだよね…(笑)。

近藤:一秒単位で創らなきゃいけないから、膨大な作業だよね。

森田:でも、今まだ迷っているんだけどシークエンスによって方法を変えていこうと思ってる。今はまだアニメーションのシークエンスがひとつしかできていないけど、次のシークエンスでは他の方法でつくったり、そしてまた最初とは違うアニメーションをつくったりと、、、とにかくバラバラな方法で作ったものがつながっていくんだけど、そこにはひとつ、時計として時間が進行するというルールだけは守られている、という具合に。

近藤:なんだかそのルールというのがさっき出ていた「年表」にあたるものに見えてきた。単に時計の数字を別のものを使って表すだけじゃなくて、そこにいろんなストーリーが入っていくとすると、まさに、さっきの「年表」のようなものになる。

森田:そうだね。まあ、まだ分かんないうちから人に言うのもなんだけど(笑)。たとえば今暖めているアイデアで、スタジオの様々な場所に時間が1分ごとにドローイングしてあって(例えばテーブルの上には「13:45」とかいてあって椅子の足には「13:46」と書いてあるというような)、それを正確に1分おきにカメラで追っていくとか。そういう一つ一つのシークエンスが「年表」の中の事件に対応しているのかもしれない。

近藤:ちなみに作家ってよくすごいオブセッションみたいなものがあって創るという人がいると思うけど、森田さんは自分でそういうのがあると思う?

森田:まあ、アーティストって言っても作品とか全然売れてないし、貧乏だし、今のところ、いいことって何もないと思うんですよね(笑)。社会的に考えれば。でもそれでもなんかやりたいなと思ってるんだから、作品に見えやすいような強迫観念はないかもしれないけど、やっぱりなんかあると思うよ。わかりやすい言葉にはできないけど。

近藤:この時計の作品は、何をオブセッションっていうかによるけど、すごい感じる(笑)。

森田:(笑)まあ、作品を見ちゃうとそんなに感じないかもしれないけど。

8

マルセル・デュシャン「アンフラマンス」


Vitrine Wall Mirror Round(anti-clockwise)、2001-、丸鏡、モーター

森田:デュシャンっていつも思うんだけど、この間横浜であった彼の展示で作品を見た時も、とにかく感動的なくらいつまんないんだよね。特にレディメイドに関しては。もちろん、それが当時衝撃をもった時代的なコンテクストがもう成立しないからっていうのもあるけど、「それにしてもどうなの?」と(笑)。そうはいいながらも、どうしても彼のやった事にはとても惹かれてしまうというのもあるんだけど。

近藤:それなのに現代アーティストは誰も彼を避けては通れない…。杉本博司もデュシャンピアンだって公言してたし、リヒターもものすごい影響を受けてる。それなのに彼は「僕は幸せでした。一生、お金持ちにならずにすんだし、食いっぱぐれることもなかったから」みたいなことを言ってたりと、芸術家としてももちろんだけど、人間として面白いよね。

森田:その言葉、僕も憶えているけどそう、彼の言葉も好きなんだよね。後でメモで見つかったもので彼の言っている「アンフラマンス」という言葉があって「それは誰も定義することはできない。例としてしか示せない」って言ってて、たとえば「煙草の煙がそれをはく口と同じように匂うとき、この二つの匂いはアンフラマンスによって結ばれる(嗅覚のアンフラマンス)」だとか(笑)。

近藤:なんだか禅みたいだね。「真実とは何ですか?」と問われて、「ここにコップがあって、そこにコーヒーが溢れている」って答えるみたいな。

森田:他にも「(人が立ったばかりの)席のぬくもりはアンフラマンスである」とか、
「アンフラマンスな分離/同じ鋳型/で片打ちされた2つの形は、たがいにアンフラマンスの分離価だけ異なる。/すべての”同一物”は、いかに同一であっても、(そして同一であればあるほど)、アンフラマンスの分離的差異に近づく」
「アンフラマンスとは極薄である」とか。日本語訳では「薄いより薄い」とか言ったりしていっているんですよね。薄いより薄いって、プラスマイナスで考えるとマイナスになるのかもしれないけど、そういうのじゃなくて、想像の中でしかあり得ないことだっていうような。なんかいろいろ考えてると意識がふぅーって遠くなる。

近藤:虚数みたいな感じなのかな…?

オロスコはボイスをみ、ボイスはデュシャンをみ、デュシャンはあなたをみる、2005、本、人形用の目

森田:デュシャンがいうように言葉で定義できないもの、用例でしか示せないものでしょう。ちょっと話は変わるけど「言葉で表せない」というと、美術の世界ではそれはもうクリシェですよね。ほらアーティストが「言葉で表せない」と言う時って、単に自分で論理的に考えられないからだったり、自分が何やってるかわからないとか、そういうものが言語化できないって思い込んでることとか…。

ちょっと脱線しちゃったけど、そういう事とは全く違うレベルで、読んで理解する事はできるけれども、それを定義しろといわれてもそう簡単にはいかないようなものというか。シンプルなんだけれどもえも言われぬような複雑さを持っている感じというか。うまく言えないんだけど…結局アンフラマンスっていうのは表したくても表せないようなものだと思う。

近藤:アート作品もたいてい「言葉で定義できない」って言われるよね。批評家とか見る側がいろんな言葉で読み解ければ読み解けるほどーさっきの「ファイブスター物語」のように原作より副読本の方がいっぱいあるほどー面白いというような。森田くんも自分の作品に対してそういう意識はある?

森田:たしかにそれはあるけど、語りにくいという感じで捉えられることが多いんじゃないかな。わかりやすい目印があんまりないというのもあると思うけど。たとえばオブセッションの人だと、女体を絶対(作品に)入れてしまうとか、裸になっちゃうとか…(笑)。

近藤:(笑)でもそういう分かりやすい目印をつくるのを避けようとしているのかな。たとえばデュシャンも初めに絵画をやってから途中からああやって便器を発表したりと変わっていったし、田中功起くんもあるキーワードとか枠組に回収されるのが嫌だと言っていたけど。

森田:…なくはないけど、田中くんほどトリックスターではない(笑)。彼はとてもトリックスター的に見える。観客の期待を遊び心を持ちつつ裏切ろうとする。彼はあまり好きじゃないみたいだけど、そういうところはデュシャン的である思う。たとえば彼がループのビデオ作品をたくさんつくっていたら、やっぱり「ループのビデオの人」っていうレッテルを貼られる。そうすると表現したいものよりも、形式の方が気になってしまう。
彼はそれがちゃんと分かっているから、ああやって変えようとしているんだと思う。スタイルなり何かを繰り返すと、それがオブセッションのようになって、特別なものとして浮かび上がってきてしまう。そういう意味でもある程度やり方の幅はあった方が、変に枠組みに回収されにくくなるという意味では有効だと思う。

近藤:ちなみに森田さんは、初期の頃はどういうのをつくっていたんですか?

森田:もっと彫刻的だった。シリコンを流して、それを切って何らかの形をつくっていたり。シリコンってどんな形にでもなるんだけど、今の話と絡めていえば、そういうの使いつづけてると「シリコン使って立体つくる作家でしょ」みたいになるから、そういう風に捉えられるのは嫌だなと思って、それを回避しようと頑張っていたのがこの5、6年くらいかな。

1973年福井県生まれ。東京都在住。1998年Bゼミスクール修了。その後、2000年よりロンドン大学ゴールドスミスカレッジに留学。2002年同校にてMAファインアート修了。いくつかのロンドンでのグループ展を経て、2002年に帰国。帰国後は日常生活に飲み込まれそうになりながらも、なんとか踏みとどまり制作を続けている。「エラー」(ギャラリーツインスペース他、2003年)、「Urban & Suburban Stories」(VTO, ロンドン、2003)、「アンチノミー」(Gallery Objective Correlative, 東京、2003)などのグループ展に参加。「森田浩彰」(ギャラリーツインスペース、大阪、2004年)、「New Order」(Gallery Objective Correlative, 東京、2005)などの個展開催。

インタビュー:近藤ヒデノリ(TS編集長)
写真:大脇崇
場所:ロイヤルホスト表参道店
日時:2005/11/21

バックナンバー