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冨井大裕 (アーティスト) 前半


今年2月、横浜のZAIM別館。僕がTSで全国からアート団体が集まるイベントに参加していたところへ、冨井さんはふらっと現れた。ちょうどこの会場でも作品を展示していたのだ。僕はついさっき彼の作品 どこにでもあるようなハンマーが奇妙な法則に則って床に並べられているーを見たのを思い出す。

冨井さんは、ストロー、画鋲、鉛筆、スポンジなど身の回りにあるモノを組み合わせて作品をつくるアーティストだ。いわば、編集による「彫刻」。見慣れたモノたちが、彼独自の体系に編まれることで日常の用途から解き放たれ、奇妙に美しい彫刻となる。そんな風にして彼は世界を少しずつ再構築していく。

以前から面識のあった僕らは、その場ですぐに話し始めるー最近のこと、作品について、批評について…。一度、じっくりと話を聞いてみたいと思っていたこともあって、ついついインタビューのようになってしまう。そして僕は急遽、彼に承諾をとって録音し始める。そんなわけで今回のインタビューは唐突に始まっている(ちなみにTSでは最近、あまりすべてを事前に決めず、こういう成り行きや偶然を取り込んでいきたいと思っている。冨井さんもびっくりさせて申し訳なかったけど、双方に準備がないからこそ聞ける面白さもあると思う)。

このインタビューをした時点では、次の個展を控え、新しい方向性を模索していた冨井さん。先週末、彼の新作インスタレーションがart&riverbankギャラリーで始まった。彼はここで、これまでの作品のように完成された彫刻ではなく、いわば彫刻をつくる過程 レシピと素材を見せることで、見る人に想像させる。このインタビューには、そんな新しい展開へと至る彼の思考の経緯が記されていると思う。

近藤ヒデノリ(TS編集長)

1

アート・批評・目的:なぜアートをつくるか


joint(ball) 2005年 ストロー 60×60×57㎝

近藤:アートは作品自体が批評性をもつことはあるけど、批評にはとどまらないということ?

冨井:やっぱり批評は批評で独立したモノとしてあるから、それぞれが立っていることで補完関係になる。作品は思いっきり破綻があって整理されてなくていいと思うけど、それだと訳がわからなくなっちゃうから、ある程度の批評の要素を取り入れて成り立っているんだと思います。

近藤:ある程度、批評の要素がない自己満足的なアートは力がないと思うんですね。過去のアートの歴史も踏まえた上で、作品自体がクリティカルで批評になっているというのは強いと。

冨井:でも批評のための作品ではない。結果として批評になっていればいいし、なっていなければならないんだけど、最初からそこを求めてはいけないと思います。僕の場合、まずは立体がつくりたかった。その衝動は批評から導きだされたものではない。ただ、その後も立体にこだわり続けているのは、どこかで批評を意識している自分を避けておきたかったからかもしれない。

近藤:それは彫刻という文脈の批評を意識していると言うこと?

冨井:逆にそうかもしれない。昔は彫刻の王道から避けながら、避けた表現をすることで結果的に批評してて…周りからはそう受け取られていました。

個展 2005年 CAS(大阪)

近藤:さっきアートは批評が目的であってはいけない、と言っていましたが、逆に冨井さんの作品の制作において何か目的というのはありますか?目的がないというのは…

冨井:…ありえないけど、つくるということに目的があるのかないのか分からないまま、それでもつくってしまっているのはなぜか?を探るのは、十分な目的足りえるんじゃないか…ちょっとややこしくなっちゃった。(笑)

近藤:先に目的どうこうじゃなくて、とにかくつくってしまう…

冨井:でも、結局なんでつくっているのかが入らざるを得ない。

近藤:なんでつくってしまうんでしょうかね?

冨井:(笑)う~ん…そこはわかんないんですよ。だからつくらざるを得ないので、今は、何に反応してつくっているかというところに意識が移行してます。何に反応して、どうつくっているのか。その「どうつくってるのか」っていうところが僕にとっての「彫刻」なんです。どうしても、モノを捉えようがないんだけど、何か信号になるものを立てておきたいー仮でも仮説でも、とりあえず何かを立てておく。そこが彫刻、立体表現なのかな、と思ってます。

近藤:外界への反応として仮説でもつくらざるを得ないもの…。そうやってつくられる彫刻とかアートって、コミュニケーションという言葉と重なったりしますけど、そこについてはどう思います?アートはコミュニケーションのツールなのか、そうでないのか。

冨井:アート自体がコミュニケーションのツールになる必要はないと思う。

2

アート1.0/アート2.0


ゴールドフィンガー 2004年 画鋲 51.5×35.2×0.1㎝

近藤:今、「web2.0」って言葉があるじゃないですか。僕は最近、アートにも「アート1.0」と「アート2.0」があるんじゃないかなと思ってるんですね。「アート1.0」は、どちらかというとホワイトキューブで見るもので、作品が作家の中で完結してて見る側はそれを一方的に見るというもの。「アート2.0」の方は、越後トリエンナーレとか、地域の町おこしプロジェクトとか、リレーショナルアートのような、見る側が作品に参加して一緒につくっていくもの。冨井さんは「アート1.0」の方だと思うですけど、そういうふうにあえて分けてみて、アートが今、社会に対して持つ可能性ってなんだと思いますか。

冨井:正直、自分の作品だけに関していえば、社会ってことはあんまり考えたことないんですよ。ただ、仮に誰かに見られなくても、つくり続けている人間が社会の中にいられるということ。そういう存在が社会に居続けなければならないんだと思います。

近藤:人と全然違うことをやっている多様な人が社会にいられるってのは重要ですよね。

冨井:そこに真剣に批評が入ってきたり、文脈を付ける人がいたり。そういう社会でないといけないと思うし、そのために自分がつくり続けてる。自分が居続けるために、つくり続けてるっていう感じ。自己中心的とも取れるかもしれないかもしれないけれど、そういうのがないとまずいと思う。

ball sheet ball 2005年 アルミ板、スーパーボール 59.5×45×30㎝

近藤:さっきの「アート1.0」と「アート2.0」の違いについてはどう思います?

冨井:見せ方とか、それぞれのどうしようもなくやってしまうやり口の違いとか、細かく語れば違いはあるけど、敢えて違いをつけて語らなければならない必要があるのかとも思います。

近藤:どちらも、やらざるを得ないことをやっている。ちなみに「アート2.0」の方では、たとえば町おこしとかワークショップなどのように何かの目的に対してアートがあることはどう思われます?

冨井:僕は、結果的にアートが社会の中で何かになってしまうというならばいいけれど、アーティスト自身がそういう方向に向かって行ってしまってはいけない。目的を持ってしまってはいけないと思います。

近藤:目的を持ってはいけない?

冨井:いわゆる大義名分的なね。

近藤:とにかく、つくっているということ自体に価値があるんじゃないかと…。

冨井:いかにそこを続けていけるかというね。

近藤:つくっていること自体に価値があるとすると、そういうものの価値を決めるのっていうのはなんなんですかね?

冨井:そこでメディアとかが出て来るんでしょうね。なかなか価値付けられない自分たちの表現をせめて相対化するための拠り所として。批評意識とか批評言語をもって、そこと関係を保つことでつくり続けられるんじゃないか。

3

MY SOURCE マイ・ソース


実家と近くの海

プロレス

カール・アンドレ

河原温

最初のアトリエ


近藤:これまで影響を受けてきたモノ・ヒト・コトとその理由を5つ教えてください。

>>実家とその近くの海


帰郷する度に海岸を散歩します。子供の頃からの習慣。

>>プロレス


いつも勇気をもらってます。

>>カール・アンドレ


床に鉄板が並んでいる光景は衝撃的でした。

>>河原温


あたり前のことだけど誰もできないことをやり続けている。
いつも立ち戻ってしまう存在。

>>最初のアトリエ


大学を出てから四畳半の1部屋をアトリエにしました。
道具と場所を最低限に抑えることで、やっと作品を作り始めることができました。

4

プロレスとアートーボケとツッコミ


近藤:今、作品とは直接関係なく注目していること、興味あることはありますか。

冨井:子供の頃から好きなもので、いまもずっと気になっている存在…プロレスなんですけど(笑)。プロレスの話をするとすっごく長くなるので話しません。

近藤:(笑)面白そうなので…簡単にでも話してもらえますか?

冨井:まず、単に好きだということ(笑)。それと作品をつくり始めてから気付いて、新たに興味を持ったこととして、批評、つまりマスコミ・メディアの側と、表現者としてのレスラー、そしてファンの関係自体が、僕が話してきたこととある意味近いと思っている。それぞれが本当に独立したものとして成立していて、それぞれに侵食可能なんです。

近藤:アートの場合、あんまり批評が成立してないですもんね。

冨井:そういう侵食関係が成立するはずなのにしていない。

近藤:プロレスにもちゃんとした批評ってあるんですか?

冨井:ありますよ。3者のどれかひとつが動くとプロレスという全体が動くんですよ。それぞれがそれぞれの役割を理解している上で侵食する幸福な関係がまだ残っている。アートもそういう関係でありたいと思うんですけど、なかなか難しいですね。

folding(plane) 2005年 コピー紙 24×21×48㎝

近藤:さっき話に出した「アート2.0」でも、作家とそれを見る側 例えば街の人が、お互い侵食することによって何か反応があって、それによって作品も変わっていくという面白さがありますけど、冨井さんの場合も何かに浸食されたいという意識があるんですか。

冨井:それはあります。そのためにプロレスでいえば僕はレスラーとして、どこまで自己表現を完結しきれるかにかかっていると思うんですよ(笑)。

近藤:お互い完結したもの同士が侵食しあった方が面白いんじゃないかと?

冨井:それが出来なければ、侵食することの意味がないでしょ。そのためにどういう役割を演じなきゃいけないかをそれぞれが考えている。プロレスってよく八百長って言うじゃないですか。それは、プロレスが抱えているいくつかのルール(ロープに振られたら戻ってくる、相手の技を受けるなど)が競技として考えた場合に理解しがたいものだから八百長と言った方が楽だということだと思うんですが、プロレスを表現者同士の戦いの場と捉えると、プロレスが持っているルールというのは非常に合理的なものに見えるんです。技をどのようにかけ、どのように受けきるのか。もしくは技を受けないとしたら、どのように説得力を持たせて裏切るのか。結果としての勝敗は問題じゃない。重要なのは、過程であって、既に決まっているかもしれない結果に説得力のある意味を持たせた者が本当の勝利者なんです。アートでも僕は同じ考えを当てはめることができると思うんです。

近藤:なるほど!

冨井:例えば討論会とかで、急に裏切ることも可能でしょう。裏切るかもしれない二人が公の場で対談していると…

four hundred points 2005年 原稿用紙 25×35.8×1.7㎝

近藤:スリルありますね。

冨井:よりメジャーな場所で語れば、また違ったスリルが生まれる。(そのスリルは)色々な人、ところに伝わると思うんですよ。

近藤:ボケと突っ込みで、今、ボケてる人しかいないっていう。アーティストがボケてるんだけど、誰もそれに突っ込んでないっていう。

冨井:そのボケもいつ突っ込むか分かんないぞっていう、チラリズムですよね。田中君(田中功起/アーティスト)ってそういうとこを感じないですか?

近藤:そうですね。ボケて突っ込んで、みたいなとこありますね。

冨井:田中君の作品は色々な見方で受け取ることが出来ると思うけど、批評意識をちらっと見せて、そのちらって部分に惹かれるんでしょうね。その後の批評の余地を残している気がする。僕の場合はどうも残らない。作品の存在感だけを見せようとしているところがある。

5

葛藤?


support 2006年 木 171×90×90㎝

近藤:冨井さんが今、一番興味あるとか、自分が向かっていく可能性を感じてることなどについて聞かせてください。

冨井:正直言って今、止まってる(笑)。止まりつつあるんですよ。彫刻という言語に偏りがちになっている。

近藤:彫刻的言語ってアート界の人以外、知らないですもんね。

冨井:そうなんですよ。たとえば固まり感、ボリューム感とか…そういうものを拠り所にしてスポンジを固めたり、ストローをつないだりするんですけど、彫刻という意識で見る人はあんまりいないだろうなということを自覚した上でつくっているんです。そういう、彫刻言語を知らない見る側と、きっと知らないだろうなと思ってつくっている僕との関係も踏まえて今までつくってきたんだけど、最近、その関係が切れ始めている。彫刻という言葉が強く出始めることで、僕と作品との関係だけになり始めて、閉じ始めてる。閉じてる具合がいいのか悪いのかということを現在、僕はものすごく考えていて、そこのふり幅で僕は全然違う方向に行くんじゃないか。

近藤:すると、多くの人が知らない彫刻の言葉ではない言語で作るかもしれない?

fold 2006年 傘袋 3×14×7㎝

冨井:モチーフにするモノの属性に寄っていくのか、モノとかじゃない中で展開していくのか。モノの属性に寄るなら、これまでの様に立体表現の形をとるでしょうが、サイズとか形態がよりモノそのままになるかもしれません。簡単にいうとスポンジやストローの作品の場合なら集積や接続とかをせずにそのままを提示する、その提示の仕方に、つくるということを賭けていく。
モノとかじゃない展開というのは、つくり方を提示するー説明書というかレシピ。そこからは見る人それぞれの頭の中でつくってもらう。頭の中の出来上がりはだいたい同じになるはずだけど、素材になる(予定の)モノへの具体的な記憶がそれぞれ違うから微妙な違いが生まれる。どちらの場合でも、立体作品としての見応えのようなものを捨てることで見る側との関係を開く。開くことでつくるという行為をより詰めなければならない立場に僕自身が置かれると思うんです。

近藤:社会的文脈とか、歴史文脈とか、一般の人に共通する文脈をあえて使おうってわけではないんですね?

冨井:関係を開くことで、見る側が文脈を使える余地は作品に残せると思うんです。ただ、僕自身が作品に共通の文脈をあらかじめ取り込む必要はない。そこをやっては自分はダメになる。なるべくそこは避けて、というのはこの先も変わらないですね。

1973年新潟県生まれ。埼玉県在住。1999年武蔵野美術大学大学院造形研究科彫刻コース修了。最初は石膏による小さな人型の作品を発表していたが、既製品を台座に使用した人型のシリーズを経て、既製品のみを組み合わせた作品に移行、現在に至る。1998年、ギャラリー現(東京)で初個展。art&riverbank(東京、2003年)、CAS(大阪、2005年)、switchpoint(東京、2004、2005、2006年)などでの個展の他、展覧会多数。5月12日よりart&riverbankで個展「世界のつくりかた」を開催。

インタビュー・写真:近藤ヒデノリ(TS編集長)
場所:ZAIM別館(横浜)
日時:2006. 02.05
協力:坂口惣一

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