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天明屋尚 (現代美術家) 前半


雑誌『広告』と連動によるスペシャルインタビュー第6弾は、
「ネオ日本画」を標榜し、絵で戦う「武闘派・画強」を名乗る現代美術家、天明屋尚。

日本伝統絵画と現代のストリート文化を融合させた作品で知られてきた彼がこの夏、自身のキュレーションによる「BASARA」展を開催するという。これまで「侘び・寂び・禅・オタク」というイメージで語られることの多かった日本美術に対して、その対極にある「華美(過美)にして反骨精神溢れる覇格(破格)な美」の系譜を突きつけるグループ展。この話を聞いた時、僕は昨年『美術手帖』で彼が監修した「アウトローの美学」特集の冒頭に掲げられた「男伊達宣言」を思い出した。

"日本では総理大臣(当時)が自らオタクと公言し、オタク文化が「クールジャパン」と祭り上げられ、脚光を浴びている。しかし一方で「『アキバ系』や『萌え』は、もううんざりだ」と言う人も少なくないのではないだろうか。[中略] 我が国日本の文化は、やわなオタク文化だけではない。オタク文化とは対極に位置し一線を画す、日本オリジナルの硬派なアウトロー美学の逆襲が始まったのだ。その粋で男伊達な美意識こそが、真の「クールジャパン」なのであるとここに宣言する"
(『美術手帖』2009年9月号)

まさに同感だった。僕自身は所謂オタクでもアウトローでもないが、近年オタク・ネット文化を始め「リア充」「草食系」という言葉がメディアを賑わす中で、どこか息苦しさを感じていたのも事実。もちろんオタクもネット文化にも価値はあるが、日本文化はそれだけではない。「カワイイ」やバーチャルなものに偏りがちなこの時代に、その対極から切り込もうとする彼の態度に深く共感し、「BASARA」展とその発想の源についてじっくりと聞いてみたいと思った。

近藤ヒデノリ(TS編集長)

天明屋尚 思念遊戯 2009 木にアクリル絵具、金箔、金襴、古布、組紐 180x165.5cm 撮影=宮島径 ©TENMYOUYA HISASHI

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MY SOURCE:天明屋尚の発想の源


「BASARA」展自体が天明屋氏の発想の源をまとめたものとも言えるが、今回のインタビューで聞いたものから代表的なSOURCEをピックアップ。

縄文土器

傾奇者

アウトローの美学

いきの美学

河鍋暁斎


 

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「BASARA」展について:縄文土器から現代のデコトラまで


.天明屋 尚 「BASARA 越境する日本美術論-縄文土器からデコトラまで-」(美術出版社/定価:2625円)

近藤:今回の「BASARA」展は自身の作品のルーツとも重なる部分が多いと思うんですが、まず展示をやろうとした意図から聞かせてください。

天明屋:今回の元になっているのは、去年の8月に私が『美術手帖』で監修した「アウトローの美学」特集なんですが、この時はタイトルどおりアウトロー寄りで、日本伝統刺青やデコトラ、特攻服や族車、不良文化など、今まで美術としてカテゴライズされていなかったものを60年続いている美術専門誌で初めて取り上げた試みでした。今回はもう少し美術として拡大解釈し例えば、長谷川等伯、写楽、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎、月岡芳年、山口晃君、横尾忠則さん、井上雄彦さんの劇画、なども「BASARA」としてカテゴライズしています。

例えば、縄文土器は日本独自の世界に類を見ない最古の土器としての造形物です。用途としては使いにくい過剰な装飾、日本にはそういう縄文時代までさかのぼれるDNA がある。
現代のデコトラやデコ電なども、既製のものにあそこまで装飾する必要はないわけですよ。機能的には不便だけど、過剰なまでに華美に装飾してしまうDNA。

日本にはそういった系譜が脈々とあって、中世の南北朝時代の流行語ともなった婆娑羅(ばさら)を核にして、日本の美術史・文化史を考察しながら、縄文土器にまで遡ってそのDNAを現代まで繋げ、ローマ字で「BASARA」と総称したのが簡単に言ってしまえば今プロジェクト「BASARA」です。

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日本文化の純化された中心へのカウンター


近藤:これまで日本文化といえば「侘び・寂び」のような部分ばかりが語られてきましたが。

中島靖貴 タイム★マシーン rice burner 2009 Kawasaki Z400FX、漆、螺鈿、金、銀、FRP、鉄、畳 200×90×230cm 撮影=横山新一 ©Yasutaka Nakajima

天明屋:日本美術や日本の文化には、中心というものが純化、漂白されて外部が削除されてきた歴史があります。例えば、茶道も宋代に発展し、日本に入ってきた当時は「闘茶」という茶の種類をあてそれめぐってお金を賭けるのが起源だったのが「賭け事はまずい」ということで禁止となる。そして、千利休、古田織部、小堀遠州と受け継がれ伝統になっていく中で当初の、周縁部に発生した荒々しさが削除されて、中心へと純化されていった経緯があります。

中心部が伝統となり権威化し漂白されていった。私に言わせればその周りの周縁部こそ、中心を形づくる輪郭です。輪郭をなす周縁であるがゆえに中心への越境も確信犯的に「BASARA」にとっては侵犯可能だと考えます。

「侘び・寂び」だったり、禅だったり、そういう簡素でミニマルなものが日本の伝統とされてきたけど、その回りにある「BASARA」的なるものはあまり語られてこなかった。削ぎ落とされて来た豊穣な源泉を取り戻し提示する作業が今プロジェクトの核でもあります。

日本は明治以降、諸外国に対して、あるいは日本国民に対して日本のアイデンティを明確にすべく「日本の心」「日本の伝統」というものを純化、聖域化させ創り上げて来ました。いわば「創られた伝統」ですね。昔から続いているように思われているけど「日本の心」みたいなものができたのは、たかだか130年程度の歴史なわけです。だから、今だからこそ、それ以前の騒々しい外部である中心なき周縁を取り戻す作業をする必要があると私は考えます。

日本の伝統文化の能も、元々は中国から伝わった伝統芸能で神社の勧進として見物料を取って庶民を楽しませていました。それが武家のお抱えとなって、たしなみとして習うかわりに演者を擁護し中央に独占されて行った。そこで庶民は自分達の芸能・歌舞伎をつくり上げた。その歌舞伎も河原つまりストリートから生まれたわけです。歌舞伎ができてその4年後には幕府に呼ばれ演じ、一時期とられそうにもなるけれど、逆に隔離され遊廓と一緒に二代悪所となってしまう。
今でこそ日本の伝統として人間国宝になったりしていますが、まず、そうした伝統になる以前を疑ってみる神話の解体こそBASARA論の大きな目論見の一つです。

山口晃 當世おばか合戦 1999 キャンバスに油彩 97×324cm 撮影=宮島径 ©YAMAGUCHI Akira Courtesy Mizuma Art Gallery

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弥生vs縄文、漫画vs劇画、オタクvs BASARA


近藤:先に縄文土器の話が出ましたが、岡本太郎さんが再発見したことを思い出しますが、BASARA もその系譜に連なるものといえますか?

天明屋:そうですね、岡本太郎が「弥生的な美」の対極として日本文化の原初的で荒々しい「縄文の美」を発見した功績は大きいと思います。岡本太郎の「縄文の発見」は縄文土器を美術作品として見出したのではなくて、価値の転換が本質でしょう。つまり、デュシャンの既製品を「レディメイド」として価値転換した行為や、柳宗悦の無名の手工芸作品が名のある大家や歴史的価値のある作品よりも優れ、見る時には直観を重視せよと言った「民藝」の価値転換と同等であると言ってよいと私は思います。

あと、鶴見俊輔の「限界芸術」もそうですよね。今回の「BASARA」もまさに、これらと同様に美術における価値の転換行為、知的遊戯なわけです。今まで美術としての価値が認められていなかったものを美術として認知させようと価値を見出だす作法、これは美術の定石ですよね。つまり実は「BASARA」は既存の美術の価値基準からすると覇道(カウンター)でもありますが王道でもあるわけですよ。

また「BASARA」はこれまでの端正で静謐、ミニマルな弥生的な美意識とは対極にあるものです。例えば、「漫画」も今でこそカタカナで「マンガ」と一つに括られていますが、60年代に当時の少年マガジンの編集長がそれまでの「お子様ランチ」的な手塚治虫を代表とする「漫画」を打破するためにカウンター・カルチャーとしての「劇画」をぶち上げました。梶原一騎の『あしたのジョー』や『巨人の星』を打ち出すことで、子供向けの「漫画」にはない、青年や大人が見るにたえうるものをつくり上げた。そういうカウンター・カルチャーとしての「劇画」も「BASARA」として欠かせません。
線一つとっても、丸っこい簡素な線でキャラクターを描く手塚治虫に対して、「劇画」は『ゴルゴ13』のように角張っていて、簡単には記号として描けない。内容をとっても子供向けな傾向と言える「漫画」に対して、例えば『あしたのジョー』は不良から成り上がり葛藤し成長して行くストーリー性のある「劇画」であり「マンガ」です。

「BASARA」展示風景 井上雄彦

「BASARA」展には井上雄彦さんの原画も展示するんですが、まさに対抗文化として出てきた「劇画」の現代の象徴が井上さんだと思うんです。彼の「マンガ」は今、日本で最高部数を誇っているそうですが、秋葉系の「萌え」の対象になるエロなオタク系とは根本的に違う、もっとカッコいい「マンガ」。その辺りが特に近年、一緒くたにされていますが、混同してはいけなと思います。ともあれ、「BASARA」は展覧会と共にカタログのテキストも重要なので是非とも読んでみて下さい。
 

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いきの美学、「記号」と「現象」


近藤:この他で「BASARA」の源として代表的なものには何があるんでしょうか?

村山留里子 愛のドレス 2004 ミクストメディア 130×150×160cm 撮影=木奥恵三 ©Ruriko Murayama Courtesy YAMAMOTO GENDAI

天明屋:「BASARA」というと一見、男性的な部分が強調されて見えますが、女性もしっかり入っています。例えば、九鬼周造の『「いき」の構造』という本にもありますが、「いき」というのは元々、江戸深川の芸者が黒い羽織を羽織って男っぽく振る舞っていた、まさに女性から始まったのが起源とされています。

近藤:キセルを手に男を誘う仕草とか…「いきとは媚態である」とありますよね。

天明屋:そうですね。化政期の当時、深川の芸者である辰巳芸者達は芸を売っても色は売らない、女性がする男っぽい仕草やしゃべり方、着こなしなどが「いき」とされた。現代のアゲ嬢達に是非とも見習って頂きたい(笑)。任俠映画でも、富司純子などが女だけれど、もろ肌脱いで刺青を見せるシーンなんかは、高倉健と同様にカッコよかったりしますよね。

他にも「BASARA」の源はまだまだあります。例えば、黒沢明や棟方志功なんかもそうです。日本のステレオタイプな美の王道からはなにかと削除されて、漂白されがちな「BASARA」の地脈にこそ世界的に通用する表現が眠っている。この二人はそういった逆説を示す優れた例証でしょう。

ヤンキー文化からの視点もその一つですが、オタク文化がヴァーチャルな「萌え」や「キャラ」といった無数の「記号」の集積からなる平面的な文化だとするならば、ヤンキー文化は現実的な等身大のリアルを志向する「現象」を重視し、そこに美学や矜持がともなうとき「生き様」や「伝説」といった「象徴性」が生まる。このようにヤンキー文化、オタク文化といつた日本文化を語る切り口もあるでしょう。

TENMYOUYA HISASHI
1966年、東京生まれ。現代美術家。日本伝統絵画を現代に転生させる独自の絵画表現「ネオ日本画」を標榜し、権威主義的な美術体制に対して、絵で戦う「武闘派」を2000年に旗揚げ。主なグループ展に、02年「天明屋尚と暁斎展」(河鍋暁斎記念美術館)、「One Planet under a Groove」(NY、ブロンクス美術館/ミネアポリス、ウォーカーアートセンター)、03年「The American Effect」(NY、ホイットニー美術館)。06年「ベルリンー東京展」(ベルリン新国立美術館)、10年「第17回シドニー・ビエンナーレ」など。2010年、自身の企画・キュレーションによる「BASARA」展を青山スパイラルガーデンで開催。2008年にその作品がクリスティーズのオークションで4800万香港ドル(約6300万円)で落札されたことでも知られる。

Official Website
http://www3.ocn.ne.jp/~tenmyoya/

インタビュー:近藤ヒデノリ
人物写真:有高唯之
場所:渋谷某所
日時:7.22.2010

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