059

天明屋尚 (現代美術家) 後半


天明屋尚 神風 2003 木にアクリル絵具、金箔 200×272.4cm © TENMYOUYA HISASHI

1

「BASARA」に惹かれたきっかけ:河鍋暁斎


河鍋暁斎 風流蛙大合戦之図 元治元年(1864) 大判錦絵3枚続き

近藤:天明屋さんがそもそも絢爛豪華な装飾性や反権力性といった「BASARA」的なものに惹かれたきっかけは何だったんですか?少年時代のお絵描き教室で日本画に触れたというのも読みました。

天明屋:河鍋暁斎という幕末・明治期に活躍した反骨精神が過剰なゆえに、一枚の絵がもとで牢獄に入れられてしまった画家がいました。その師匠が歌川国芳という絵師で、この人も反権威的なものを描いて捕まりそうになる…そうした既成の価値を一度疑ってみる、斜に構える、権威に対して怯まないアーティストが私は大好きです。長谷川等伯も雪舟五代なんて言って大真面目に幕府の御用絵師集団の狩野派に真っ向勝負していますしね(笑)。

近藤:彼らのことを知ったのはいつ頃なんですか?

SHIGE  不動明王 ©SHIGE

天明屋:河鍋暁斎は20代のちょっと前半、18~19歳ぐらい。たまたま古本屋で見て絵から入って、生き方を知ったという感じです。元々、私はあまのじゃくなところやアウトロー的な部分もあったのでとてもしっくりきました。

近藤:アウトロー的といえば、刺青も今はそうしたイメージが強いですよね。
 
天明屋:日本伝統刺青の元祖は歌川国芳が『水滸伝』を描いた錦絵です。義賊集団でありながら、民衆にとって正義の英雄集団でもあった『水滸伝』の登場人物達。国芳の描いた九紋龍 史進や花和尚魯智深などは刺青を全身に入れています。これが描かれる以前にはワンポイント的な刺青が主流で、全身に刺青を入れる習慣がなく、それ以後は国芳の『水滸伝』シリーズが爆発的にヒットしたため、体全身に刺青を入れる者が増えたそうです。当時の火消しや、駕籠かき、雲助など……裸になる機会の多い人たちが入れていたようです。明治に入ると、西洋の船乗り達の間で「日本にはすごく上手い彫師がいる」と噂が伝わって、西洋王室でも刺青ブームが起きジョージ王子なども日本にわざわざ彫るために来ていたそうです。刺青はアウトロー的要素はどうしてもぬぐえませんが、日本には優れた日本伝統刺青師がいます。一度色眼鏡をはずして、もっと純粋に芸術として見て頂きたいと私は切に願っています。「BASARA」展のオープニングでは刺青師のSHIGEさんの作品を背負った方々12名のお披露目があるので、じっくり見て頂きたいですね。

2

「デス&デコ」日本人の死生観と装飾性


上出長右衛門窯 髑髏 お菓子壷 花詰 2008 陶器 16×14×20cm 個人蔵 撮影=市川勝弘 Courtesy Maruwakaya

近藤:刺青には詳しくないですが、例えば桜吹雪とか牡丹のような図柄には、はかなさとか散りゆく美学のようなものを感じるんですが、実際にそういうのが込められているんでしょうか?

天明屋:刺青は入れた人が死んでしまえば消滅してしまう、散りゆく潔さがありますよね。これまで美術として語られてこなかったのは、それが人間に刻まれ動くもので、しかも刺青を入れた人が死んでしまったら残らない。写真でしか残こすことができなかった所にあるのかもしれませんね。

近藤:美術では元来、動かない「不動産」じゃないと扱いにくいですしね。美術館自体がそうした動かない作品の墓場という一面もありますよね。

天明屋:そうですね。ただ、造形物として存在しないでコンセプトシートだけを販売するといったアート作品もありますけどね。墓場といえば、骸骨を花弁でうめ尽くしたお菓子壺があるんです。頭がパカッと開いてお菓子が入れられる伝統工芸の九谷焼と丸若屋とのコラボ作品で、原寸大の骸骨型お菓子壺。これは2008年の作品なんですが、ダミアン・ハーストのスカルの日本版といったところでしょうか。

近藤:ダミアン・ハーストにダイヤモンドを散りばめた骸骨の作品がありましたね。

天明屋:そうですね。刺青にも儚く散る潔さが同居してますが、この骸骨の作品にも、絢爛豪華な装飾美と儚く散る死の二面性が凝縮されている。西洋のメメント・モリの死生観ともまた違って、「BASARA」の美意識は絢爛豪華な飾りと反抗を孕んでいるわけですが、華美な装飾は死への反抗を孕んでいるとも語れるのかもしれない。

近藤:それは武士道の「武士道とは死ぬ事と見付けたり」という死生観とも関係しているんでしょうか? 

天明屋:日本人って葉隠や新渡戸稲造の武士道にあるようなフレーズが大好きですよね。桜もそうした日本の散る美学の象徴とされていますが、そもそも桜自体は中国のもので、それが明治以降に日本的な花とされて、今では日本の象徴みたいになった。特攻もよく等価に語られますが、それはやはり戦時中に植えつけられた「日本の心」といった「創られた伝統」ですよね。
カタログでは「デス&デコ」と書きましたが、死ぬこととデコレーションは表裏一体。武士道の死生観とも関わってくると思いますが、変わり兜と陣羽織などもまさにそれを象徴しています。散るからこそ、戦場で絢爛豪華に飾りたてる。

近藤:たしかBTの特集では「ぎりぎりに気を張った死生観から発生した様式」「装束もド派手だからこそ死に際が引き立つ」と書いてましたね。

天明屋:そういうことです。
 

3

「取り合わせ」「見立て」


近藤:天明屋さんの作品も日本画という伝統絵画様式に現代のストリート文化を融合させたり、「BASARA」展も様々な作品や本を編集するというか、異なるものを組み合わせたものが多い気がするのですが、そうした意識はありますか?

天明屋:組み合わせるという意味では「BASARA」には多分にそういう要素があります。一例をあげるならば織田信長なんかは、若かりし頃に茶筅髷や袖を外したゆかたびらといった異装や、西洋の甲冑とマントを合わせたことで「傾奇者」と言われたわけですが、そういう外来文化と既存の文化を混合・融合してつくり上げるものが、まさに「BASARA」的な姿勢、態度でもあります。日本美術の伝統でもある「取り合わせ」の美学ですよね。池田学君の作品なんかも、いろんなものをハイブリッドして過剰に増殖している。村山留里子さんの作品もそうです。山口晃君の作品も、洛中洛外図や鳥瞰図を元に時代やいろいろな物が融合・混合されて増殖していますし。

近藤:いろんなものを混ぜあわせて増殖していく…。

天明屋:日本には「見立て」という作法がありますよね。例えばお祭りで山車をつくることで山の神を依り代として憑依させる。山に見立てるわけです。その山車自体、いろいろなものをハイブリッドさせて山に見立て取り合わせて造形化している。お祭りの山車は、提灯がいっぱいついたりしてハイブリッドされ増殖していくというか、華美であり得ないような造形にしていく「取り合わせ」の作法がある。昔は「贅沢は禁」といった法律があったけど、祭り事や、宗教美術の絢爛豪華さだけは特例として許されていた。そんな中でどんどん過剰に、絢爛豪華になっていった…そういうものも含めて「BASARA」ですね。

HITOTZUKI(KAMI+SASU) 壁画 2004  ペンキ、スプレーペイント、マーカー 3.5×30m ©HITOTZUKI

近藤:禁じられていたり、抑えられていた生のエネルギーの爆発が、過剰な絢爛豪華性として形づくられる。「BASARA」というのはいわば、生の表現と言えるんでしょうか。

天明屋:でしょうね。室町前期の婆裟羅(ばさら)大名などは、贅沢を禁ずるのと一緒で、やっぱり天皇や公家から抑圧されることに対してのカウンターというか「お前らふざけるな!」みたいな意識があったと思うんです。だから、贅沢に身なりを飾りたてて権威を嘲笑う反骨精神旺盛な者を「婆裟羅」と呼んだ。抑圧されると爆発する、権威があるからこそ、逆にカウンターが引き立つ。まさにそのとおりです。

近藤:中心があるからカウンターが生まれる。両方あるから発展していくんでしょうね。例えば、世の中がシンプル志向になってくると、過剰なものが求められ、過剰なものが増えてくると、逆に整理されたシンプルさが求められるというように…

天明屋:ファッションの傾向みたいなものですね、揺らいでどちらにも振れる。どっちもありみたいな感じで。私自身も、華美な物とは対極のシンプルな物も実は好きだったりしますし。

4

ツッパリ、デコトラ、族車…過剰な絢爛豪華さにも法則性がある?


近藤:弥生的な「侘び・寂び」や余白のような簡素な美の方法に対して、「BASARA」はどこかカオティックな感じがありますが、その過剰な絢爛豪華さには、何か論理とか法則のようなものがあるんでしょうか?それとも何もないんでしょうか?
 

池田学 興亡史 2006 紙にペン、インク 200×200cm 撮影=宮島径 © IKEDA Manabu Courtesy Mizuma Art Gallery

天明屋:法則ですか。例えば池田学君の作品の細部だけ見るとランダムに描いているように見えますけど、俯瞰で見ると波・木・戦艦などに「見立て」たりしていますし。「見立て」は日本ならではの知的遊戯の伝統でもあり「BASARA」とも相性がいい。実際にあるかのように見せるデッサン力や技術といった説得力も大事かもしれませんね。
 
近藤:そうした様々な「見立て」が全体として過剰性を生むというのは、例えば1枚のパイ生地を半分に折り畳むというシンプルなルールを積み重ねていくと、そこにカオスが発生するというのに近いんでしょうか。
 
天明屋:それともちょっと違うんですが、法則は確かにあると思います。例えば、どのデコトラもどこか似てるんですよね。恐らくツッパリの学生服とヘアスタイルのように、突飛なようでどこか似通っている。パンクファッションってそれぞれ突飛なようでいてパンクと一括りにできますよね。ヒップ・ホップな奴らはどっから見てもヒップ・ホップだし。違う枠組みの集団では通用しないけど、ある集団ではそのルールが絶対的にまかり通る法則、ルールがありますよ。だから、無秩序ではなく、秩序があって系統立てられるとは思います。
 
近藤:例えばリーゼントがとんがっているのと、暴走族のバイクの後ろがグワーッと尖ってるというのも、何か似た美意識なり法則なんですか。
 
天明屋:あれも確かに法則がありますよね。例えばツッパリの学ランの上下のバランスにしても短ランになったり、長ランになったり、デコトラも上が過剰にデコレーションされると前にも突き出してくるとか。族車も「竹やり&出っ歯」とかいう法則がありますし。そういう末端が肥大してせり出す法則のようなのは確かにあります。たぶん、何か既成の枠からはみ出ようとすると両極に伸びちゃうんじゃないでしょうか(笑)。
 

5

世界にもある「BASARA」的なもの


近藤:そうした両極が飛び出すような過剰な装飾性というのは、日本独自なものなんでしょうか。
 

天明屋:以前デコトラをパソコンで検索してたら、海外にもそういうデコレーションされたトラックがありました。でも、やはり国ごとに日本のデコトラとは違う法則で華美になってるのが面白い。
 
近藤:ギラギラに飾ったデコトラみたいなのはメキシコなどにもありそうですね。
 
天明屋:ありそうですね。インドの寺院なども過剰に絢爛豪華だし。過剰にしようとすると、どこかごてごてと伸びていっちゃうのかもしれませんね。ガウディのサクラダファミリアにしても…。

近藤:日本の建築にも、先日五十嵐太郎さんに取材した時に、SUNNAや石上純也さんのようにシンプルな弥生的な系統と、樹上の茶室の藤森照信さんや、竹が過剰に並んだ建築の森田恭通さんの縄文的な装飾性の2つの系統があると言っていました。一方で、ガウディーの建築もそうですが、制作にかかる時間の違いもありますよね。池田学さんの作品も制作にすごく時間がかかるとか。

天明屋:(池田)学君の作品にはいつも頭が下がりますよ。例えばこの絵も制作に1年半かかっているそうです。1日8時間描いてわずか10センチ四方しか進まない。個展ではギャラリーのホワイトキューブの空間にこれ1点だけが飾ってありました。たった1点でもその空間に耐え得る強度のある作品です。ただ、時間をかけて細密に描けばいいという問題でもないとは思いますが「細部に神は宿る」といった言葉がぴったりな作品ですね。

近藤:天明屋さんの作品もディテールの描きこみが凄いですが、背景は余白をうまく残しているのが多いですよね。

天明屋:学君の作品も白地をうまく生かしていますよね。山口晃君もそうだし。みんな手抜きがうまいっていうか、力を入れる所と抜く所を心得ている。

6

現代アートと宇宙観・世界観


近藤:先のインドの話で思い出したんですが、天明屋さんの作品に曼陀羅を鉛筆で克明に模写したものがありましたよね?
 

天明屋尚 イコン伝達装置 −本質の消失によるフォンタナ的考察−胎蔵界 2006 トレーシングペーパー、鉛筆、メンディングテープ、紐、アクリル球、アクリル板、アクリル棒、コード、蛍光灯 103×75.5cm © TENMYOUYA HISASHI

天明屋:あれは日本に密教として伝わってきた曼荼羅を丁寧に写したものです。胎蔵界と金剛界、2つの曼陀羅を模写しました。ですが、ただそのまま写しただけではありません。フォンタナが2次元のキャンバスにナイフを入れて3次元にしてしまったという現代美術の革新性を、曼荼羅を媒体にしてキャンバスではなくトレーシングペーパーで、ナイフではなく光によって刺せないかと試みたフォンタナへのオマージュでもあります。

近藤:曼陀羅というのは、一つの宇宙観とか世界観を一枚の絵に凝縮したものだと思うんですが、ふと、デコトラなども自分の宇宙観や世界観を全部入れようとするから自然とすごい密度になるのではないかと思ったんですが…?

天明屋:それは面白いですね。曼陀羅の作品は特に、不思議なほどに宇宙を感じますよね。1点描くのにそうとうな時間を費やしている。まさに信仰心の成せる業です。

近藤:一つの仮説として、そういう風に1枚の絵にその人の生活すべてが入っているというのは、近代以降の美術がどんどん細分化して、平面なら平面という2次元の表現を突き詰めるという風になっていった中で、逆に、昔の宗教画のように1枚の絵に宇宙観や世界観をすべて表現する方向に戻ろうとしているのでは?とも思ったんですが、どう思われますか。

天明屋:確かにそうやって過去に戻るのもありかもしれない。ですが現代美術の場合、そこにもう一つ何かが必要かもですね。

近藤:例えば村山留里子さんの作品を見て「何がここまで過剰にさせるんだろう?」と思っていたんですが、何か一つの彼女の宇宙みたいなものを作品に全部入れようとしているように思えてきました。

天明屋:……また宗教画に戻りますか。

近藤:実は以前、杉本博司さんに宗教とアートの関係について聞いた時にも「根っこは同じだよ(笑)」とその出自の近さの話になったんです。

天明屋:ある時代までは宗教とアートは一つだった。宗教を視覚化して説明する宗教画なんかがまさにそうですよね。

近藤:そうですね。そして今、宗教があまり機能しない時代だからこそ、アートがそれに代わる役割をもちうるのではと思っています。だとすると細分化された断片で語るよりも、作品に宇宙観なり世界観が全部入ってるほうが強いですよね。

天明屋:「大きな物語の終焉」なんて少し哲学をかじった人は語りますが、現在の現代アートは大きな物語に触れてはならないというタブーがあったりします(笑)。この種のタブーが、日本の現代アートシーンを、個人の瑣末な内面やその場でしか生成されない瞬間芸、断片のような全くつまらないアートを生んでしまった。そんなアートに本当に世界を説得するだけの価値があるのか?と私は言いたい。「大きな物語は終わってしまった」私は全くこれを信じていません。ジェフ・クーンズやデミアン・ハースト、村上隆が拠ってたつのは、資本主義というこれも一種の大きな物語です。BASARAが語る「歴史」、これも言ってみれば大きな物語かもしれません。「大きな物語」をマルクス主義あるいは西洋哲学が終わってしまったと言い換えればしっくりくる。

近藤:同感です。日本的な世界観が世界を全体として一挙に捉えるものだとすると、西洋のは科学のように分割して断片として捉えるものですよね。現代アートもそれに従って断片化してきたと思うんですが、今になって環境問題が出てきたりする中で、やっぱり全体として捉えなきゃ駄目なんじゃないかという綜合への機運が生まれてきているのかなと。

天明屋:特に現代美術の場合は欧米主導で今まで来たので、キリスト教を中心とした宗教観が核になっている。それに対して僕らの国は考え方が、やっぱり違う。一神教ではなく多神教。多様な宇宙観、世界観ですよね。そう考えると、こういう作品の世界観が出てきた理由も説明しやすいかもしれませんね。

近藤:まさに万の神の世界観ですよね。今日はいろいろ面白い話が聞かせていただき、ありがとうございました!

........................................................................................................................................
インタビューを終えて:

このインタビュー後、僕は青山スパイラルで開催された「BASARA」展のオープニングに行ってきた。
実は正直、強面の来場者で溢れる予感もあったのだが(笑)、会場に着いてみれば美術関係者をはじめ華やかな客層で想像以上の熱気。4日間という短い会期ではあったが、初日の来場者数は2000人を越えたという。
オープニング当日、スパイラル前の路上にはデコレーションが過剰に突き出したデコトラが停車。
会場でライブで行われた10名余による刺青ショーでは文字通り生きた肉体に彫られた絵を堪能したほか、展示作品それぞれに骨太な本物がもつ強度のようなものを強く感じた。
彼自身の監修によるカタログも豊富な図版を含め読み応え十分。
このインタビューと合わせて読めば「創られた伝統」の裏に隠されていた「華美(過美)にして反骨精神溢れる覇格(破格)な美」の系譜が見えてくると思う。
ストリートからオタク文化へ、バーチャルな時代へのリアルの逆襲はまだ始まったばかりだ。

「BASARA」展示風景

interview by:

近藤ヒデノリ Hidenori Kondo
クリエイティブディレクター、CMプランナー
TOKYO SOURCE編集長、季刊誌「広告」編集委員

1971年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。東京写真専門学校中退。博報堂に入社後、休職してNY大学芸術学部/ICP修士課程で写真と現代アートを学び、9.11直前に帰国。同社に復職後は、TVCMやウェブなどの広告を制作しながら、個人としても個展・グループ展、展覧会キュレーション、書籍の編集など手法を選ばず表現活動を続けている。ラクダ似な旅好き。(photo: Suguru Takeuchi)
ブログ「TRAVEL HETEROPIA」http://d.hatena.ne.jp/camelkondo/
Twitter@KondoHidenori
........................................................................................................................................

TENMYOUYA HISASHI
1966年、東京生まれ。現代美術家。日本伝統絵画を現代に転生させる独自の絵画表現「ネオ日本画」を標榜し、権威主義的な美術体制に対して、絵で戦う「武闘派」を2000年に旗揚げ。主なグループ展に、02年「天明屋尚と暁斎展」(河鍋暁斎記念美術館)、「One Planet under a Groove」(NY、ブロンクス美術館/ミネアポリス、ウォーカーアートセンター)、03年「The American Effect」(NY、ホイットニー美術館)。06年「ベルリンー東京展」(ベルリン新国立美術館)、10年「第17回シドニー・ビエンナーレ」など。2010年、自身の企画・キュレーションによる「BASARA」展を青山スパイラルガーデンで開催。2008年にその作品がクリスティーズのオークションで4800万香港ドル(約6300万円)で落札されたことでも知られる。

Official Website
http://www3.ocn.ne.jp/~tenmyoya/

インタビュー:近藤ヒデノリ
人物写真:有高唯之
場所:渋谷某所
日時:7.22.2010

バックナンバー