006

田中功起 (アーティスト)


「田中功起について知っている、10の事柄。」

田中功起は、ビデオ作品をつくっている。
田中功起は、現実に非現実を侵入させる。
田中功起は、立体やテキスト作品もつくっている。
田中功起は、気持ちいい。
田中功起は、世界の見え方を新しくする。
田中功起は、開いている。
田中功起は、大仏に似ている。
田中功起は、確信犯である。
田中功起は、国籍に囚われない。
田中功起は、今、これらのすべてであり、すべてでない。

僕が、初めて彼の作品を実際に見たのは、縁側に座った笠智衆が扇子を延々と扇ぎ続けるビデオ作品(「「Perfect Life」2002」)だった。小津安二郎の映画「東京物語」のほんの数秒のシーンを無限にループさせたものだ。田中はこの時期、ループという「始まりも終わりもない」形式を、身の回りにあてはめた作品をつくりつづける。その後、「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2003」「六本木クロッシング」を経て、去年、群馬県立近代美術館で行われた個展で、彼は新しい展開を見せる。そこではループの手法は姿を消し、空を舞いつづけるビニール袋や、転げ落ちるスニーカーなどが「そのまま」記録されていた。反復から一回性へ。

「すでに現実の中にいくらでも異常なことがあるんだと思ったらものすごく楽になったんです。」

9.11テロ事件や、スマトラ沖地震を挙げるまでもなく、僕らはフィクション化した現実へのリアルの侵入が、映画や小説などを圧倒するインパクトを持つことを知っている。宮台真司は、近著「絶望 断念 福音 映画」の中で、コミュニケーション可能なものの全体を<社会>、ありとあらゆるもの全体を<世界>と呼ぶ。そして映画や小説を例に、意味に縛られた<社会>への唐突な未規定性な<世界>の訪れを、自分と<世界>の関係をリフレーミングする「福音」として捉える。田中功起の作品はまさにそんな「福音」だ。それも出来る限りお金をかけないミニマルな方法による。

実は、TSを始めるにあたって田中功起はまず話しを聞きたいと思っていたひとりだった。作品に興味があったのはもちろんだが、作品発表の他にも評論やエッセイなども書いている彼が、確信犯であり、自分のやっていることを的確に言葉にできるだろうと思ったからだ。インタビューは実際3時間近くにも及び、その後も遅いランチを食べながら僕らは話しつづけた。まさに「Infinite Conversation」。結果、かなり長くなってしまったが、その後の田中の綿密な校正もあり、密度の濃いものになったので全部載せることにした。時間のある時にでも、ゆっくり読んでほしい。

近藤ヒデノリ/TS編集長

1

始まりも終わりもなく


「moving still」 2000年, DVD(endless)

近藤:田中君の作品で最初に印象に残ったのは、弾み続けるバスケットボールの作品や、流れ続けるコーラの作品など、日常の何気ないシーンを短くループさせることによって、いつのまにか非日常に連れ去ってしまう作品でした。まるで佐内正史の写真的な日常世界の断片を見ていると思ったら、いつのまにか、非日常の世界に連れ去られているという…。

田中:そもそもぼくの制作のテーマは日常や非日常ということではありません。ただ、日常と非日常という枠組みでもって作品を見るとわかりやすいという側面もたしかにあります。その伝わり方が悪いとも今まではあまり思ってはいませんでした。なので去年、アメリカにいた時などは意識的にその言葉を使ってもいました(禅的だなどと勘違いされるよりもよっぽどよかった)。どちらかというと「日常」というキーワードよりも、もう少し大きくて漠然としている「世界」という言葉のほうがしっくりきます。「日常」はどうしても個人的なものですよね。誰にとっての日常かといった時にそれはその作者にとっての、ということにもなってしまう。ぼくにはそれはすごく閉じられていることのように感じられます。「世界」と言った時、それはもう少し開かれたものとしてありますよね。

「grace」2001年, DVD(endless)

ただそれは今の話で、「ループ」の作品をつくり始めた(大学を卒業した2000年)頃に考えていたのは、もうちょっと形式的なことでした。「始まりも終わりもない」という単純な骨組み、構造を、身の回りのものに当てはめるとどうなるのかという実験をしていたようなものです。その頃につくったものには話にも出たバスケットボール(「Grace」2001)やコーラ(「Moving Still」2000)、椅子(「C’mon C’mon」2001)などを使ったものがあります。学生の時にも電車のモデルが円形につながっているものや2つのトイレットペーパーがつながっているもの、あるいは映画のワンシーンをループさせたものなどをつくってました。そのなかにはビデオ・レンタルをベースにした映画、いわゆるVシネマのワンシーンをつないだものもありました。役者の哀川翔さん率いるやくざたちが乗り込んでくるとその先にも哀川翔さんがいた、というように2つの別々の映画をつないで短くループさせたものもありました。これは後に再制作して発表しました(「Just on time」2002)。

近藤:映画のループの方が先だったんだ。水戸芸術館で行われた「スクリーン・メモリーズ」で、笠智衆が縁側で延々と団扇で扇ぎ続けている作品(「Perfect Life」2002)は強く印象に残ってます。あそこで同時に展示されていた哀川翔のVシネマを使った作品は、ダグラス・ゴードンがつくった映画「タクシー・ドライバー」のワンシーンをループさせた作品を彷彿させたけど、その当時、そういうのは意識していた?

田中:知らなかったのか知っていたのか、いまとなってはあいまいなんですが、学生のころウィーンの大学に交換留学で行って、どこかの展覧会ではじめてダグラス・ゴードンを見て、ああいうことはみんな(?)、やってるんだと(笑)。

「just on time」2002年 DVD、プロジェクター、スピーカー、革張りのソファ、パンチカーペット、神棚、モデルガン、机、ポスター、ガラスの灰皿、黒電話、ハワイ土産など

近藤:シンクロしてたのかな。

田中:いやいや時期としては、ぼくの方が後出しですね。学生の頃も何度かそういう指摘があって、ダグラス・ゴードン(「サイコ」や「タクシー・ドライバー」など有名な映画を素材にしている)との違いを考えたこともあったのですが、ぼくの場合、選んでいる素材がとにかく徹底的にB級ものだったというところですかね。大した違いでもないですけれども(でも笠智衆のビデオは小津安二郎の『東京物語』を使っているのでこれだけはべつですが)。そして同じく学生のころそういうB級映画(そこにはVシネマも入ります)のワンシーンをループさせたものをナガミネプロジェクツというギャラリーに見せにいったときに、それで展覧会をしようということになったのですが、著作権の問題があるのでどうしようかと相談されました。そこでいろいろ考えた揚げ句、展示をする一週間まえぐらいになって、じゃあ、同じことを日常的な題材でやってみようと、すぐに家の台所で缶のコーラが流れるところを撮影してみたのです。何度もやったので床がびしょびしょになっちゃいましたが。それを編集してループにしてみると思ってた以上に面白くて…。その後は、この方法を基本として、いくつかヴァリエーションを増やしながら制作を続けました。といっても最初が思いつきだし、つねに方向性が見えていたわけではないんですが、いまから考えるとひとつの形式を強化していく過程だったのだと思います。あ、でもこれはビデオの作品に限ってのことで、立体や写真などに関しては思いつきをひとつずつ試していただけでした。

田中功起

近藤:さっき「始まりも終わりもない形式をあてはめていた」と言っていたけど、そもそも何故そういう形式を当てはめてみたいと思ったの?

田中:「始まりも終わりもない」ということになぜ興味を持ったのかということですよね。これは個人的なことに関わるので恥ずかしいからあんまり言いたくないけれども…。
これにはふたつのことが関わってます。まずひとつは制作そのものに関係することです。大学に入ってからの数年は何をやってもすぐに先行するアーティストと同じような作品をつくっている自分がいました。「MY SOURCE」でも書いたようにぼくはもともと美術オタクなので、どうしても知っているものの影響を受けちゃう。どうしても似ちゃうわけです。この状況ってたぶんものづくりに関わるひとだったらだれでも経験があると思うのですが、まさに「出口なし」でした。ぼくはどこにも行けないし、なにもないし、なにもできないというふうに思っていて、とにかくもうどうしたらいいのかわからないかった(笑)。
もうひとつは毎日の生活に関係することです。いま思えば贅沢な話ですがとにかく日々の生活がものすごく退屈だったのです。単調だったんですね。朝起きるととにかく大学行ってスタジオですぐにどこかのアーティストの作品に似てしまうようなものをつくって帰りにコンビニ寄って弁当を買って家に帰ってテレビ番組なんかを見て寝る。以下、毎日このくり返し。ちょうどそのころ、社会学者の宮台真司が「終わりなき日常」というキーワードを使っていた。これはでも援助交際をする女子高生の日常に対してたしか使っていたように思うのですが、「ほんとに終わんねぇよなぁー」とぼくも共感してました。
そうしたふたつの閉塞感、制作と生活に対するどうしようもなさを作品づくりを続けることでなんとか回収してやりくりしていた。その当時つくっていたビデオ作品にふたつのモニターを使ったものがあって、片方のモニターではひとつのプラモデルを作っているぼくが撮されていて、もう片方のモニターではそれを壊しているぼくが撮されている(笑)

「fly me to the moon」 2001, DVD(endless)

近藤:そりゃ、やばいっすね。精神的に。

田中:しばらく経ってすこし冷静になったときにそうした「出口なし」状況をひとつの構造として取りだしてみようと思いました。そこにはなにかしらのリアリティがあるのではないかと。「出口がない」ということは内側に閉じているわけで、その閉じた構造を「始まりも終わりもない」というふうに考えたのです。「終わりなき作品」というわけです。
自分の状況を遠くから見てそこに構造を見出すなんてことができるようになったのは、あるビデオ作品を撮ったことがきっかけでした。「ぼくの次回作を考える」というビデオです。4人の人物(ギャラリスト、編集者、カメラマン、美大の学生)にある場所に集まってもらってぼくのファイルを見ながらとことん話し合ってもらいました。そのビデオにはぼくは映ってません。シナリオももちろんありません。4人が導き出した結論は笑ってしまうものでした。ぼくの外見が大仏に似ているから仏像を彫った方がいいという…。このビデオは3分程度にまとめて、あっという間に結論が出るかたちに編集しました。大学の合評会ではとにかく不評でしたけれども。その後、実際に仏像を彫ってみたりもしたんですがやっぱ技術的に難しすぎると諦めて…(笑)。たしか大学3年の夏ごろだったかなー、そこでなんというかふっきれたのです。
このビデオを、当時東京造形大学にワークショップにきていたウィーン芸術アカデミーの先生に見せるとすごく好意的に見てくれました。「このビデオには構造があるから内容がわかる」という話をしてくれて、作品に必要なのはまずは構造的なことなんだって。話は前後しちゃいますが、それから「始まりも終わりもない」という構造にリアリティを感じて、それをとにかくいろいろなものに当てはめる作業を開始するわけです。

2

現実に非現実を侵入させる


個展「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」
2004年、群馬県立近代美術館

近藤:田中君はいつも、単にホワイトキューブでビデオを見せるだけでなく(ビデオを撮った現場での)インスタレーションという方法で、現実とフィクションを地続きに見せようとしているけど、そういう見せ方をする理由について少し聞かせてもらえる?

田中:映像のなかで起きていることにはあまり現実感がありません。たとえば、ゴジラが映画の中で東京をいくら破壊しても、だれも実際の「この東京」が破壊されたってパニックになるひとはいませんよね。それは「映画というフィクション」であり「現実」ではないんだというお約束を映画館で見ているすべてのひとがわかっているからです。そのうえでスクリーンの向こう側のフィクションとしての東京が壊される。そこに娯楽性があります。現実は現実のままで脅かされるわけではない。映画館を出ればだれもが普段の生活に戻ります。だれもゴジラが東京にくることを心配しない。映画の娯楽性とは違ったおもしろさをぼくが映像に見出すとすれば、それはそれを見たときに現実が脅かされるようなものに対してです。たとえば心霊写真が怖いのはそれが現実だと感じられるからです。現実に幽霊がいるように見えるから怖いわけですよね。
セゾンアートプログラムが企画した展覧会「SAP Art-ing東京2001」は廃校を使ったものだったのですが、ぼくは会場で見つけたトイレットペーパーとバスケットボールとゴミ箱をモチーフに、自分が展示をする場所で撮影したビデオをその同じ場所に置くという展示方法の作品をつくりました。つまりいま見ているビデオがその同じ場所で撮影されているということがわかるようにインスタレーションをしたのです。映像のなかの風景と実際の風景がおなじであり、なおかつ映像の中身はおかしな事態になっている。トイレットペーパーは飛んでいて、バスケットボールは跳ねつづけ、ゴミ箱はときどきひとりでに回っている。そのように現実に非現実が侵入する瞬間を見せられたら面白いかなと。

3

予定調和を回避する


「123456」2003, DVD(endless)

近藤:グラスのなかでカラカラと回り続けるサイコロの作品(「123456」2004)に象徴的だと思うんだけど、田中君の作品はいつも、決定的瞬間を回避するというか、先送りしようとしているものが多い。その辺は、いつも意識している?

田中:たぶん順序としては先に「決定的瞬間」を回避するものをつくろうと思っていたわけではなく、どちらかというと「始まりも終わりもない」というループの構造から必然的に導き出されたものなのでしょうね。結果的にそれはひとつの面白さの発見でもあったわけです。つまり結論が出そうで出ない、終わりそうで終わらないとかそういう状態ってなんだかわからないけど見てしまうんですよね、不思議と。それはある種の予定調和を避けるというか、そういうことでもあるのかな。到達するはずのところに到達しないわけですから。

「light my fire」 2002, DVD, 3min3sec

またこれはぼくの制作全般にも共通する態度でもありますね。テーマやベクトルも変えてみたり、いろいろなメディアを使ったりしているとぼくの全体像がよくわからない。これはでも戦略というよりも性分として自分が飽きっぽいということもあるし、ひとつのことしかしない人間なんてそもそもいないだろうというあたりまえの感覚です。ただ、ことビデオに関してはループの形式、あるいはループにまつわる形式をたくさんつくりました。たとえば、ミズマアートギャラリーで見せた「Light My Fire」(2002、導火線が点火されたまま延々と続いていく)は、ただ同じ状態がリアルに続いていくというもので、ループ状に映像をつなぐことでバスケットボールが永遠にバウンドし続けている、「Grace」とは違います。そういうループというか持続というか無限というか永遠というか、そういうものの違う側面を作品として落としていく、そんなことをしていたのですが、形式から導き出されるヴァリエーションは、まあ、たかが知れてるというか…(笑)。そうしたなかでも、たとえば「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2003」で出品した「Each and Every」(2003)では、内容としてはただひとりの料理人が調理場で延々料理をしているところが続いていくというビデオですが、すこし以前のものとは違う。カット数も多いのでそれでも複雑に見えるのですが、まずこの料理人の仕事の仕方がすでに複雑なのです。調理と片づけと仕込みとがめまぐるしく一体に進んでいく。ぼくはただそれを撮影させてもらっただけで、編集はただそれをつないだだけです(ひとつだけいじったのは料理の仕上がりの場面をカットしたことです。でもそれでさえ、彼がすべての料理を仕上げるわけではなく、途中までやってあとは他の人に投げてしまうこともあるから、ほとんどカットした部分はありません)。そこではシンプルな料理という行為が複雑に延々と続いていくということが見せられた。表現がひとつ広がったと思いました。

「どれもこれも」 each and every, 2003, DVD(30分のループ)

自分としてはある種のキーワードとか傾向という枠組みでもって、「これこれこういう作品をつくっている作家だ」と回収されるのが嫌ですね。その意味でいえば群馬県立近代美術館での個展「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」(2004)はずいぶんとでたらめな感じで(笑)。もちろん、ある統一感あると思います、ひとりの人間が作るものですから。個々の作品もそれぞれ違うベクトルを持っているのですが、今までの作品を見ているひとにとってはぼくの全体像はますますバラバラになるでしょうね。学生のころ考えていたことに「全部のぼくの作品を見ないかぎり全体像がわからないようにしたい」ということがありました。毎回、違う作品をあちこちで見せていたら、全部をフォローすることはほとんど不可能ですよね。たとえば三つの作品を見た時にイメージする作家像と、そこにまた一つプラスして見た時に見える作家像が違うような状態。つまりなにかやっているんだけれどもなにをやっているのかほんとうのところはよくわからない、ということ。全部のぼくの作品を見ているひとというのはつまりは自分のことだから、ぼく自身も自分のことがよくわかっていないので、これはだれにもわからないということにもなりますけれども…。

4

見たことのないものをつくる


「覚醒in the air」, 2002年、FRP

近藤:そういう姿勢は最近の作品を見ていても常に感じますね。予測がつかない。ところで、以前にあるインタビューで「アートってのは、見たことのないものをつくること」だって言ってたけど、そういう意識は今もある?たとえば、爆発を彫刻という形にした「覚醒in the Air」(2002)とか、トンネルを視覚化した作品(「トンネルの旅」2003)などを念頭に置いているんですけど…。

田中:ぼくはそのつもり(?)でつくっていますが、たとえば最近の「ビール」(2004)とか「スニーカー」(2004)にしても(ビールがあふれるまでつがれるとか、同じスニーカーがいくつも落ちてくるとか)、それらをある方が見たときに「見たことのあるものは見たくない。芸術を通して見たことがない世界が見たい」というようなことを言われたことがあって…。たとえばビールを全部あふれるまで注いだことがある人はどれだけいるんでしょうか。同じスニーカーがそれも階段からどんどん落ちてくるということを実際に見たことがあるひとがどれだけいるしょうか。でもそのひとには「見たことがあること」に見えたわけだし、そう言われてしまえば仕方ありません。

「ビール」2004, DVD, 39sec

近藤:実は先日会った辻川幸一郎という映像作家も全く同じことを言っていて、彼の場合はCGが使えるからまだ可能だと思うんですけど、そういうの無しに「見たことのないものをつくる」というのは大変ではありますよね。

田中:CGでつくってしまうと、それははじめからフィクションであることが前提でひとは見るから「フィクション」という「見たことがあるもの」になってしまうと思います。CGであることを隠せばいまの技術なら現実のように見せることも可能かもしれませんが、ぼくはそこには違和感があります。むしろ手に取れる身近なもののなかにこそ見たことがないなにかがあるのではないかと思っています。たとえば映画「エイリアン」を見たとして、それはたしかに見たことがない生き物ですけれども完全に虚構なので、現実との距離があまり関係なくなってしまう。現実のなかにあるものを「見たことがない状態」にもちこんだ方が、現実との距離がものすごく遠くなり、それが無限になったときにそれは「見たことがないもの」になる。

「トンネルの旅」2003年、石膏、木材、170×90×9cm

青山:逆に、ウルトラマンが胡座をかいてすわってメシを食ってるということがあったとすると、戻しているとも言える。

近藤:そうっすね(笑)フィクションを今度は現実に戻していると。

田中:実際にウルトラセブンにはそういう場面がありますよ。ウルトラセブンと怪獣がなぜか四畳半の畳の上でちゃぶ台はさんで座っているという…(笑)。

5

血みどろの六本木クロッシング


近藤:去年の「六本木クロッシング」(2004、森美術館)でのビデオ作品(「トランクと血と光」2004)を見たとき、実はかなり意外で、これまであまりなかった生理的な感触、薄気味悪さを題材にしている点でも、今までの作品とはかなり異質に見えました。どうしてこういう作品が生まれたんだろう?

「トランクと血と光」2004、ビデオインスタレーション、DVD(5分30秒)

田中:そうですね。なぜそんなに異質に見えたのか、自分でもあのあとちょっと驚きました。たぶんいままでの作品のバラバラさよりも振り幅が大きかったのでしょうね。自分としてはやりたいことをそのつどしているというもののうちのひとつでしかなかったのですが。ただ、いろんな偶然も重なって、ぼくのなかのひた隠し(?)にしていた「生理的なもの」がでちゃったのでしょうね。ループの形式を探ることにも飽きてきていて、まあ煮詰まっていて、かといって何をしようかと思っていました。あの作品については自分でもよくわからない部分が多いのです。最初は違うプランだったのですが「血」のイメージを使うことは決まっていて。紆余曲折があったうえで「トランクから血が出る。のたうちまわる」というああいう展開になった。なにか極端なものをやってみたらどう見えるのかということも考えとしてはありましたけど…。

近藤:以前に、「最近はフェティッシュなイメージの強度によりかかった表現が多い」と書いていたけど、あえてそういうイメージの強度という方向で実験したのかなと思いました。

田中:きっとそうだったのでしょうね。

6

ループからシンギュラリティへ


近藤:これをきっかけにか、最近は「ループ」という手法から変化しましたね。これまでが、一見ありのままの世界に見えたのがいつのまにか非現実に連れ去られているとしたら、今度はそのまんま、ありのままの写真をビデオで見せているという感じだけど、実はそれがセットアップで出来ているという…。音楽に例えれば、ループという単調なハウスミュージックのビートから、より即興的で複雑なポリリズムになっているとでもいうか。NY滞在以降に、こういう変化が生じたのはなぜ?

「スニーカー」(sneakers)2004, DVD, 26sec

田中:こういう場面で「テクノからエレクトロニカへ」みたいなことを言ったらカッコいいかなとか思ってましたが(笑)。NYでのことを話せば、ACCという団体から助成金をもらって、とにかくぼーとのんびりしていたわけです。行ってすぐにループの作品をつくって「これで制作はしましたよ」とお茶を濁しておいて、あとはだらだらと何もしないですごそうと思ってました。映画見たり、ライブ行ったり、お金のある限りぶらぶらして。そういう状態に自分をおいて、改めて考えてみたかったわけです、自分はほんとうに何がやりたいのかと。そんな風に生活をしていると、なんというか、ふっと、見たことのないもの、ありえないもの、面白いものというのはたぶんこの世界にすでに無数にあるものなんだと、思えたのです。映像をいじってループにするということを経なくても十分に作品になるものはあると。たとえばさっき、明治神宮にあったお化けのような木のように、すでに現実のなかにいくらでも異常なことがあるんだと思ったらものすごく楽になったんです。ぼくはそれを探し出せばいいわけです。構造という「骨組み」が最初になくても、それを世界の中から見つけ出して、それを使ってもいいんだろうと。撮影に関してもそのまま撮影してもいいんじゃないかと。そのままでも世界は面白いんだと。気づくということはそれだけで十分に鑑賞に堪えられるものだと思ったのです。これは「自分がこうしたい」という作者の意図(というよりもうすこし素朴な願望かな)とはちょっと距離をおいた考え方です。もちろんつくるのだから意図はぬぐえないのだけれども、あまり大げさには意図はいらないのかもしれない。だからそれはぼくの作品としてかならずしも実現されてなくとも、それがある世界の方がそれがない世界よりも面白いというようなものとしてそれがある世界があればいい。この世界がどんどんそうなっていったらいいですね。

左から近藤、青山、田中

近藤:そういう点で、僕は現実のあるがままの世界、断片を撮影するという写真に近いと思うんだけど、それでもビデオでやろうというのは何故なんだろう。時間軸があるから?ノイズを呼び込みやすいから?

田中:写真についてはわからないことが多いのです。ぼくは写真を見たときにそれのどこを見ていいのかわからなくなることがあります。写っている中身を見ていいのか、色やかたちを見ていいのか、そのコンテキストを見ればいいのか、制作のプロセスを考えればいいのか。写真について書かれたテキストを読んでもその解釈が単なる深読みにしか思えないというか(笑)。なんで写っているままのものをいろいろと解釈できるんだろうかと。それは写真を解釈しているのではなく写真に写ったものを解釈しているだけなのじゃないかと。
理想的なのは映っているままの映像を解釈せずに映っているままにとらえてもらうことなので、それがある種の出来事、時間をともなうことであればよりそのままに受けとられるだろうと思ってます。考える間もなくものごとは先に進んでしまいますので。バスケットボールが跳ねつづけている。ビールはただあふれている。先ほど話に出た「見たことのあるものでしかない」と言った方はその意味でまっとうにぼくのビデオを受け止めてくれたのです。そこで起きていることは起きている「そのまま」のことでしかないわけですから。

7

みんな、偶然が好き


「バケツとボール」2005年、DVD

近藤:最近の作品を見ると、バケツの作品(「バケツとボール」2005、バケツにボールが入るところさまざまなシチュエーションで撮影されている)とかにしても、そういう「偶然性」、あるいは偶然の美しさみたいなものにこだわっているように見えるけど?

田中:みんな偶然が好きですよね。最近のスポーツニュースで、ヤクルトスワローズの古田の2000本安打と巨人の清原の500号ホームランという2つの大記録がたまたま同じ日になるかも!ということを騒いでいて…。そうした偶然にみんな惹かれるわけです。ありえそうであえりえない偶然的なものはそれだけでおもしろいですよね。もうひとつはそういう偶然にできたことってマネできないですよね。ぼくの作品の方法論ってものすごく単純なので誰でもできちゃうわけです(笑)。それもいちおう避けておきたいなと。

近藤:たしかにね。ただ、最近の作品は、一回しか起こらないことだから原理的にマネできない。

田中:そう、できそうでできない感じがいいかなと(笑)。

8

ニューヨークで考えたこと


「Plastic Bags into the Sky」2004, DVD, 2min33sec

近藤:ところで、群馬県立近代美術館での展示ではそういう一回しか起こらない世界の「断片」を10個選んで展示していたけど、その10個を選ぶ基準ってあるの?

田中:それを言葉にするのがむずしいですね。よくぼくはネタ帳みたいなものにアイデアを書いていくのですが、あの個展でははじめから10個くらいは見せようと思っていた。それに向かって今回はずいぶんとボツ映像を撮りました。OKテイクとボツのその基準もたしかにあるのですがこれも言葉にするのはむずかしい。ただ、最初に決めていたことは「この世界をどういう風に見たら面白いか」っていう方法論を作品を通して考えてみようと。そうした視点を理解して獲得するには最低でも10種類くらいは必要かなと。
フィッシュリ&ヴァイスの作品に「How to work Better」というテキストの作品があって、10個のインストラクションで構成されているのですが、たとえば「落ちつきなさい」とか、「ひとの話を聞くことを学びなさい」や「センスとナンセンスを区別しなさい」とか、最後は「スマイル」だったりします。あとブルース・ナウマンもスタジオにこもって11点組の写真作品をつくっていますね。あの有名な口から水をぴゅーっと出しているものもそのひとつです。ともに10か11ぐらいつくっている。ぼくもそういうことを映像を使ってやってみようと。
NYでまったく無名のだれにも知られてない人間になったわけだから、つまりなにをやってもありなわけです。そうした一からつくりあげられる状況になった時に、今後10年間くらい楽しめる方法論を編み出そうと思ったのです。2000年に最初の個展をして、ここ5年くらいは学生のころに考えていたアイデアでやってきました。すこしいじったり変えたりはもちろんしていますが。でも限界があります。群馬ではそのなかでとりあえず完成できた10個のビデオを見せられたということですね。

9

コアなところに向かった方が、逆に伝わるんじゃないか


近藤:作品をつくっていくのに対して、誰に向けてつくっているというのはある?

田中:少人数に向けてと、とりあえずは言っておきます。必ずしも見にきてくれなくても、この人とこの人とこの人…という具体的な3人くらいのひとに向けてつくっています。その意味ではものすごく個人的な作業なのかもしれない。ただ、群馬県立近代美術館での展示ではびっくりしたのですが、子供と高齢者が意外と面白がってくれたのです。とくに高齢者に面白がってくれたひとがいたというのはなんだかすごくうれしかった。「日常って、こんなに面白いんですね!」というようなコメントがアンケートに書かれていて、そういうかたちで伝わっている。ふつうのおばさんがビールがあふれるだけの作品を見ながら「ほら、こんなに綺麗だよー!」って言っていたりする。そんな風に見てもらえるんだなと。

もしかするとむしろアートをよく知っているひとよりも、アートのことをまったく知らないひとの方がわかっているのではないかとも思うのです。以前、うちの母と一緒にフェリックス・ゴンザレス=トレスの展示を見に行ったときがあって、そこにあるキャンディをいきなり掴んだりして「えーっ!ちょっと待って~」って(笑)。(フェリックス・ゴンザレス=トレスのキャンディを床に敷き詰めた作品)。ぼくはそのときまだ彼の作品がどういうものであるのかを知らなかったので母の感性をすごいなと思ったのです。こういうことは信用できますよね。本来アートって、そういうものだと思います。だれにでもわかるものじゃないけれども、かといってわからないわけではないもの。伝わるところには伝わるんじゃないかとは思います。
ぼくの作品もさまざまな人に見てもらいたいけど、かといって、不特定多数の大衆に対してなにができるのかなんてことを考えるとわけがわからなくなるから考えません。自分がしらないひとやたくさんのひとのことを考えてもみんなそれぞれ考え方は違うわけだし、すぐに流行にのせられるし、あてにならないですよね。幸い、ぼくの周りには手厳しい批判者(職業としてというよりは人間としてそういう性質の人たちという意味ですが)がたくさんいるのでそこに向かってなにかをしているほうが自分にとってわかりやすいのです。だからぼくはとにかく「これがアートである」というものをつくるしかない。でもそこに近づけば近づくほど、むしろいろんなひとに伝わっているようにも思うのです。これが不思議なんですが、無理してわかりやすくとか考えるよりも、コアなものに向かう方がいつのまにか伝わっていたりしますね。よく「一般の人」にわかりやすく、なんてことを言うひとがいますが「一般の人」を甘く見てますよね。アーティストはすなおにいい作品をつくればいいわけです。

10

やりたいことがすべてできた:「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」(群馬県立近代美術館)


個展「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」2004年、群馬県立近代美術館

近藤:群馬の会場での、美術の裏方、倉庫の中にあるものを全部外に出しちゃう展示は痛快でした。今までとは逆に、フィクションの中でリアルなものを見ているという意味でも。

田中:いままではグループショウが多く、個展をする機会があまりありませんでした。グループショウだとどうしてもそのなかで自分の作品をどう見せるべきかということやほかのアーティストのことが気になったりして、ある程度の差異化をはかったり、あるいはキュレイターの側でそういうことを言ってくるひとがいたりと、つまりこちら側の要望に制約がかかったりするのです。もちろんそれが作品をよくする方向に働くこともありますが…。たとえば消防法の問題があって天井をつくれなかったり、ほかの作品との関係で壁から独立したブースとしてはつくれなかったり、そういうことはあります。それが群馬の会場では、いままのでの、インスタレーションをするうえでのさまざまな反省点を生かして展示をすることができました。やりたいことがすべてやれましたね。はじめて作品らしきものがひとつのインスタレーションとしてできたのではないかと思ってます。ぼくは現場に入ってやりたい方なので、ひとつひとつのものの組み合わせもやりやすかったですし。

近藤:じゃあ、美術館の倉庫にあるものを全部出しちゃうってのも、前からあったアイデアだったの?

個展「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」2004年、群馬県立近代美術館

田中:美術館の下見には一年前くらいまえに行っていて、そのときにみた倉庫のなかが印象的でした。展示台や壁やガラスケースなどが積み重なっていて、それって大きな積み木みたいなものじゃないですか。それぞれがすでに機能をもってつくられたものだからすでに統一感がある。そうしたものをまったく一からつくるとなると大変だろうけど、すでにあるものを組み合わせていくのはとても面白い作業で、やっていくうちにこれしかないという積み方が決まってくるのです。手伝ってもらってやりましたが、隅々まで自分の思うように手を入れましたね。

近藤:初めに全体のイメージみたいなのが頭の中にあったの?街をイメージしてたとか?

田中:最初は都市をイメージしてました。といってももちろんすべてをイメージすることはできないので、あの角のあたりはこんな感じ、あっちはこんな感じという風に、いくつかの場所をバラバラに決めていって、あとは現場でそれらの断片をつないでいくような作業でしたね。メモ書きをした短文をつないでひとつのながい小説を書くような感じでした。

11

インストラクション


近藤:そういえば、今回は断片的な言葉によるインストラクション作品がありましたね。
「となりの会話に参加する」とか。

田中:以前からテキストだけの作品というものはつくりたかったのですが、なぜかそういうものをつくることはどうも恥ずかしかったんですね。でもNYではあまりそう感じず、なんとなく簡単な英語でつくったのです。もとはビデオ作品のアイデアとして考えていたものなどで、実際には撮影できないものや撮影してしまうとつまらなく感じるだろうもの、そのようなものをテキストというかたちで生かせないかなと思ったのです。それを群馬県立近代美術館の田中さんに送ったら、ぜひ群馬でもつくってくれと言われて、のせられました。NYのものもサイトスペシフィックな要素をすこし入れたので、群馬でも新たに考えました。その場所でしか意味をなさないものも含まれると現実の場所にべつの意味が生じますよね。

群馬での10のインストラクション

近藤:他にも、「炭酸水に…

田中:「炭酸水に石灰が入る」や「公園にいる全員で昼寝する」、あとは「財布の落ちかたは無限にある」なんてのもありました。

近藤:そういうインストラクションになってないのが混じってましたよね。

田中:そうですね(笑)。最初は仮の名前でインストラクションと呼んでいたのですが、それが定着してそのうちタイトルを「群馬での10のインストラクション」ということにして…。たしかにみんながやったら面白いかな、ということもありましたが…。でもたしかにそのインストラクション通りにみんながやったら面白いかな。「水たまりに石けんを入れて泡立たせる」や「自分とおなじ顔のひとを探す」をだれかがしていたとします。これらが少数のひとによって行なわれていたら、それはおかしな行為かもしれません。でもたぶんこうした視点を通してたくさんのひとがこの世界を違うように見ることができたら、世界は別の側面をそこに見せてくれるようにも思います。そのとき世界はもうすこし面白く、もうすこし豊かなものとして見えてくるかもしれません。ぼくのインストラクションは、世界を違ったように見るためのきっかけみたいなもので、あとは応用というか、それぞれのひとがそれぞれ自覚的に世界を豊かに(そういう意味ではぼくの、とは違ったように)見たとしたら、それってあっちこっちで面白い事態がたくさん起きているってことで、なんだかアナーキーな感じがしませんか。たぶん、多くのひとはそうした面白い視点をそれがおかしなこと、あやしいことだとして隠しているようにも思います。それをみんなが素直に出せるような世の中になったらよりいいかな。

12

アートは最後の砦


近藤:田中くんは一方で、「世界を救うプロジェクト」で、地球に衝突してくる隕石をレシーブで跳ね返すドローイングとか、世界を救うボタンなど、今の社会情勢に笑いで対応したような作品をつくってるけど、アートで社会に対してできることって何かあると思う?

田中:これはなんどでも言いたいことなのですが、基本的に目に見えるかたちで社会に対してアートができることはないと思ってます。ただアートの存在意義があるとしたら、なににも貢献することがないものがこの世界に存在するということ、あるいは世界が効用とか効果とか目的、そういう実利だけで成り立っているわけじゃないということを示すことにあると思います。あえて言えばそのための最後の砦が、アートなんじゃないかと。アートを何かの目的のために使うとかいうのはおかしいですよ。
たとえば社会との関係を築くという意味で、ワークショップなどを行なう美術館があったりアーティストがたくさんいますが、すべてとは言いませんがそこにはおかしなことも起きている。そこではアートは地域社会との交流を目的とした手段になっているわけです。この例を出せばわかりやすいと思うのですが、アートをなにかしらの目的の手段として使うとはこのこととおなじです。「この絵を見つめていると一週間でみるみる目が良くなりますよ」とうたわれている絵があったとします。これはかなりうさんくさいですよね。アートを使って地域社会との交流をうたうワークショップも、根っこはおなじです。アートはアート自体が目的なのでそれだけでいいと思うのです。アートは多くのひとにわかってもらえるものだとは思うけど、多くのひとに必要とされるものではないのかもしれない。最近の風潮では、みんなにわかってもらうためにはむずかしいことはダメみたいな、レベルを下げなきゃいけないみたいな、あるいはほかのジャンルの要素をすこし入れて「面白いでしょ、わかるでしょ」って感じで、いわば水増しして薄めたような作品が多いですよね。本気の作品を見せればいいんですよ。アーティストがアートを信じないでどうするんでしょうね。それがアーティストが社会に対峙するということだと思います。

13

アートでもそろそろ本当のことを語るべき


近藤:Future Sourceで、サンボマスターを例に「アートでもそろそろ本当のことを語るべき」と書いてたけど?

田中:みんななんでか知らないけどアートに関して、ほんとうのことを言わないですよね。つまらない展覧会見てもつまらないと言わないし、ひどい作品見てもひどいと言わない。かげでこそこそやっている。ダメなアーティストがいれば、ダメな学芸員だって、ダメな評論家だって、ダメなジャーナリストだって、ダメな雑誌だって、ダメな美術館だって、あるわけです。それに一度ダメだからってよくなるかもしれないし、よかったものがダメになることもあります。つまりそういうことはあまり口に出さないですよね。でもなんとなく仕事がなくなって自然消滅していく。つまりなあなあです。アーティスト自身も、そんなことを言ってしまったら書いてもらえなかったり、選んでもらえなくなるのじゃないかと怖れてる。「批評する」というあたりまえのことがすくなくとも東京にはなくなってきてますね。もっと自然とそういう状況があって、制作も批評も成り立っていくとそれがいちばんいいんですが…。

近藤:田中君も芸術批評誌「リア」でとか、他にもいろいろ批評的な文章を書いているけど、制作することと批評するということはどういう関係にある?

田中:批評と制作はそんなにリンクはしていません。「リア」でやろうとしていたのは、とにかくもっと批評が活発になって欲しいと思ってみんなで原理的なことを書いたまでです。

近藤:確かにまともに批評する媒体ってすごく少ないと思う。たとえば展示とかやると、けっこう書いてもらえるの?

田中:あまりないですね。文字数を少なくのせる媒体がほとんどなのでどうしても紹介や解説的なものが多くなってしまいます。でも群馬県立近代美術館のときは美術批評家の林卓行さんと学芸員の田中龍也さんのまとまったテキストがカタログにのりましたし、美術手帖では美術評論家の松井みどりさんが展評を書いてくれました。

14

MY SOURCE マイ・ソース


近現代美術史

よくもわるくも自分は芸術オタクだと思う。
モダンマスターで好きなのはモネ、ゴッホ、ポロックなど。
コンテンポラリーではコスース、河原温、ブルース・ナウマン、フェリックス・ゴンザレス=トレス、ロニ・ホーン、中原浩大、ロマーン・シグネールなど

ダウンタウン

とくに松本人志『ビジュアルバム』や『ごっつええ感じ』、『ガキの使い』のオープニングネタ。『元気が出るテレビ』も『全員集合』も見ていたけど、たぶんダウンタウンによるお笑い拡張のほうが自分にとっては影響力高い気がする

『武蔵野美術』での編集の経験

編集者としてアートの世界に接していた三年間。編集者であるということは、アーティストとしてではなく、批評家や鑑賞者のような距離を置いた立場としてアートをみる経験でした

小説、大西巨人『神聖喜劇』と村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

前者は「小説ってここまでできるんだな」って衝撃を受けた作品。後者はとにかく何度読んでも発見がある

Vシネマ

とくに黒沢清と三池崇史のVシネマ。お約束を守りつつも全く違う映画になってしまっている。
黒沢『勝手にしやがれ!』シリーズ、『蛇の道』『蜘蛛の瞳』など
三池『フルメタル極道』『不動』『許されざる者』『新・仁義の墓場』など


ジャクソン・ポロック

田中:モダンアートは昔から好きです。ポロックの絵画は初めて見たとき、とにかく圧倒されました。こういう絵画ってありえるんだと、ものすごく心を動かされましたね。なんていうか、経験が常に新しくなる感じ…。

近藤:田中くんの作品にもフォーマルなこだわりは随所に感じますね。バケツの作品に関しても、とにかく構図がきれいだし。

田中:色とか構図とかはわりと好きに決められるところです。そこだけが唯一自分に与えられた自由な部分かな。あとは自分で決めたその作品におけるルールを守らなければならないんで。

中原浩大

田中:中原浩大はすごく重要なアーティストだと思います。コピーライトの逆のような、今でいうオープンソース的なことをずいぶんと早く考えていたり、いまのアートにつながることを90年代のはじめのころにやっていたりする。しばらく表だった活動をやめていたようですが、約10年ぶりに新作を発表していて、このまえ仙台まで見に行ったのですがすごくよかったです。彼のようなアーティストが日本にいたということには、ぼくはずいぶんと勇気づけられました。

ダウンタウン

田中:いやー、すごいなぁと。お約束をわかっている上でひとつひとつをくずしていく。あるいは一カ所だけを変えてみたり。やくざが全員拳銃の代わりにボーリングのボールを持ってたら、なんていうコントは最高ですね。

近藤:お笑いとアートって田中偉一郎君の例を見ても、とても近いから、お笑い芸人とかももっとアートとかを気軽に見に来てくれたりするといいよね。

15

FUTURE SOURCE フューチャー・ソース


クローズアップ・マジック

最近テレビでやたらと目にするマジック。なんか気になる

新潟県中越地震

参加した『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』の地域であり、すごく気になっているが自分がどういう行動をすべきかいまだによくわからない。内容は違うが『宮崎勤事件』とか『地下鉄サリン事件』も自分の中でずっとひっかかっている

フランシス・アリス

最近気になっているのは「場所」のこと。「自分がいまどこにいるのか」や「その作品はどこで作られたのか」ということが気になっている。彼はそうした問題をも抱えている作家だと思う

誰かの特技

「青山|目黒」の青山さんの息子さんの特技に、いろいろなものを駒のように回すってことがあって、そういう誰かの特技というものが少し気になる

サンボマスター

アートもそろそろ本当のことを語るべき


マジック

田中:マジックは身のまわりにあるありきたりのものを使ってそれをまったく違うものとして見せる技術ですよね。物理法則を逆手にとって、そのお約束を破っている。それまで目の前にあったものが突然消えるとか。破れたものがもとに戻るとか。つまり物理的にありえないことを、錯覚を使って見せることですね。これは明解なことだし、面白いです。

近藤:以前の偉一郎くんへのインタビューではアートとお笑いの共通点があったけど、アートとマジックの共通点ってのもあるんだね。

フランシス・アリス

田中:彼の作品はたとえば「ピストルを持っていたら何分で捕まるか」とか、「ペンキの缶に小さな穴をあけてそれを垂らしながら都市を歩いてみる」とか、「巨大な氷を溶けるまで押してみる」というようなパフォーマンスの記録のようなそうでないような、そんなものをつくっているアーティストです。たぶん「街を歩く」ということが彼の方法論のもとになっているように思います。すごくシンプルに、街のなかに入って作品をつくっていますよね。ぼくは彼の作品のなかに、社会と関係するという最近のアートの問題に対する最適な解のひとつがあるように思うのです。

近藤:けっこう社会的。メキシコにはサンチアゴ・シエラもいるし、オロツコもいるし、面白いアーティストがたくさんいるね。

田中:そうですね。

近藤:最近、「場所」のことが気になるって書いてたけど?

田中:たとえば今回の個展のようにNYで撮影したビデオを群馬で見せるってどういうことなんだろうか、と思うのです。見せる場所によってどういう差が生まれるのかということが気になっています。最近、海外での発表や活動が増えてきているのでそうした「場所」のことも気になりだしているのだと思います。

近藤:最後の質問だけど、10年後の自分を思い浮かべて、どんな作品を作りたいか、表現者としてどうなっていたいかとかある?

田中:わかんないですよね(笑)。少なくともいまの時点で、想像できないところにはいたいですね。これから10年で自分がどういうことをしているのか、どういう作品をつくっているのか、いま想像できていることとどれだけ違うことになっているのか。今後5年ぐらいが重要な気がしています。

........................................................................................................................................
interview by:

近藤ヒデノリ Hidenori Kondo
クリエイティブディレクター、CMプランナー
TOKYO SOURCE編集長、季刊誌「広告」編集委員

1971年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。東京写真専門学校中退。博報堂に入社後、休職してNY大学/ICP修士課程で写真と現代アートを学び、9.11直前に帰国。同社に復職後は、TVCMやウェブなどの広告を制作しながら、個人としても個展・グループ展、展覧会キュレーション、書籍の編集など手法を選ばず表現活動を続けている。ラクダ似な旅好き。(photo: Suguru Takeuchi)
ブログ「TRAVEL HETEROPIA」http://d.hatena.ne.jp/camelkondo/

........................................................................................................................................

'75年栃木県生まれ。東京造形大学を2000年に卒業後、同年武蔵美術大学出版編集室(現出版局)に編集者として勤務、と同時にナガミネプロジェクツ(現閉廊中)で最初の個展を行なう。その後、群馬県立近代美術館での個展や水戸芸術館、森美術館などでのグループ展、MoMAやGetty Centerなどでのビデオ・スクリーニングに参加。2004年にはACCの助成を受けNYに滞在。現在はギャラリー「青山|目黒」と仕事をし、雑誌『芸術の山』創刊に向け鋭意活動中

インタビュー:近藤ヒデノリ(TS編集長)
写真:高田洋三
場所:神宮公園
日時:4/26/2005
同席:青山秀樹(青山|目黒)

バックナンバー