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丹羽良徳 (アーティスト) 前半


某ギャラリーの手伝いをしていた時に、初めて丹羽さんに会った。
トレードマークの赤いベレー帽、飄々とした語り口が印象深く、帰宅してすぐにサイトを探した。いくつかの映像作品が見られるようになってるサイトでは、どこか海外の道端でしゃがみこみ、水たまりの水を少しずつ口に含んでは、数歩先の別の水たまりまで移しに行く様子が映し出されていた。

「水たまりAを水たまりBに移しかえる」2004
パフォーマンスのドキュメントヴィデオ

淡々と、街ゆく人に邪魔されながらも続ける姿は、ふざけているようでひたむきで、信念を突き通そうとする意志が言葉の壁を越えて、遠巻きに囲む人々に確実に伝わっているように見えた。それが丹羽良徳の作品「水たまりAを水たまりBに移しかえる」だった。

他にも丹羽は「熊の着ぐるみで熊に会いに行く」「泥棒と文通する」「100匹の猫と握手をする」などの詩的でロマンティックな作品や「社会主義者を胴上げする」「デモを逆走する」など、皮肉まじりの社会問題提起型の映像作品を発表し続けている。また、ギャラリー内に樹上の鳥の巣を再構成したり、下北沢の路地裏にネオンサインで「ためらう」という文字を出現させたりと、トリックスター的な一面も見せる。

最近では作品の制作現場はほとんど海外だという丹羽は、旧社会主義国と日本を行き来しながら、自らの肉体を媒介にパフォーマンスを行なうことで、現代日本の資本主義システムを紐解こうとしているようにも見える。そのユニークな発想の源と社会主義を題材に選ぶ理由を聞いてみたいと思った。

脇屋佐起子(TOKYO SOURCE)

1

作品を作る時、自分が一番びっくりすることをやろうといつも思う


「熊が熊に会いに動物園に行く」2010
パフォーマンスのドキュメントヴィデオ

脇屋:過去の作品を見ると、例えば熊の着ぐるみで熊に会いに行くとか、ユーモアのある作品が多かったけれど、最近は社会主義への興味からか、作風が変化しているように思いますが。

丹羽:最近の作品も僕なりのユーモアだけどね。作品を作る時、自分が一番びっくりすることをやろうといつも思う。物が何度も買えるなんて、自分が一番不安になるけど、そのプレッシャーに自分を追い込むこと。その行為に躊躇する自分を認識しながらいつもやっています。当然、それは見る人にも伝わるだろうし、社会通念上いろんな問題が起こりうるだろうこともわかってやってます。

脇屋:社会通念との摩擦をどこまで試せるかということ?

丹羽:特に最近は興味の対象が社会的システムそのものに向かっているんです。経済や消費のあり方に一石を投じたい。そこで写真でなくパフォーマンスという形式をとることで、ある程度の不安定なノイズが出る。何が起こるかわからないし、何か言われてトラブルになるかもしれないけど、自分の身体をもってやることが必要だと思っていて。文章や写真でも出来るかもしれないけど、ビデオで一部始終を撮ることでやろうとしてます。

脇屋:そもそも、なんで自分をびっくりさせたいんですか?

丹羽:人の感覚なんてあまり変わらないと思ってるから。熱いものは熱いし、冷たいものは冷たい。作品を見て個人差があるといってもほとんど変わらないだろうし、自分がびっくりしない限り人はびっくりしないと思う。自分が一番面白いと思わない限りやらないというのはそういうことで、それも作るための方法なのかもしれない。

2

社会通念との摩擦を試す


「イスタンブールで手持ちのお金がなくなるまで、トルコリラとユーロの外貨両替をする」2011
パフォーマンスのヴィデオドキュメント

脇屋:「イスタンブールで手持ちのお金がなくなるまでトルコリラとユーロの外貨両替をする」という作品の中でも社会通念との摩擦を試してますね。あれは両替で発生する手数料でお金がなくなっていってるんですか?

丹羽:それはほとんどビデオに映してないから、見る人が計算するしかないけど、理論上は無くなるまで続けられる。あの時も、おじさんに「閉店です」って言われなければ延々続けられて、お金がなくなるまでやるつもりでやってた。「No Commission」って書いてあるけど、実際には手数料がかかっていないわけがなくて、どこかで減ってるんだよね。

脇屋:経済システムの中で、持っていたはずのお金が知らないうちになくなっていく。

丹羽:要するにお金は増えるものじゃなくて、消えていくものだということ。ユーロ危機の問題もある。トルコはユーロに入りたいらしいけど、ドイツはトルコが嫌いで、ギリシャとトルコは仲が悪いから、ギリシャが入ればトルコは入りたがらないという事情がある。作品の中では言及してないけど、そこまで考えたら面白いかなと思ってイスタンブールであの作品を撮った。

脇屋:映像の中で、大筋に関係ない会話も全て訳していたのは意図があってのことですか?

丹羽:わざとです。ある程度意味ありげに聞こえるところだけ訳して載せてます。

脇屋:肝心なところが全然訳されていなかったりもしますよね?

丹羽:雑音が多すぎて、本当に聞こえなかったところもあるし、何人もが同時に話したり、途中から聞こえてきたりしているから、代名詞ばかりでわからないことも多い。あえて切ってる部分もあるし、嘘を書いている部分もある。その辺は、僕のこれまでの作品を知ってる人が見れば、本当に撮ってるだろうと思うところを逆手にとって作ってる。ドキュメンタリーと言われると本当にあった出来事だと思い込んでしまうけど、フィクションドキュメンタリーもあるし、歴史だって本当のノンフィクションなのか誰にもわからない。フィクションだったことが今は歴史になってしまっている可能性だってある。そう考えたら真実なんて一つもないかもしれない。本当と嘘はかなりごちゃごちゃになっているから、こういう作り方をしてもいいんじゃないかと。

3

仕組みの外に行ってしまえば、ものすごいことが起こるんじゃないか


脇屋:「デモを逆走する」という作品はデモ自体に対して一石を投じたいと?

「デモ行進を逆走する」2011
パフォーマンスのドキュメントビデオ,ビデオ画像を印刷した布

丹羽: 気持ちとしては反対だけどデモには参加できない、そういう気持ちになった人も多いと思うけど、デモに参加するつもりもないし、デモに参加しなければ反対運動もできないのであれば、いっそ逆走するしかないんじゃないかと。わからなすぎて答えがない答えを出してる。
この作品は、他に比べて圧倒的に画面に映る情報量が多くて、たった10分程度で総勢何名の人が映っているかも分からないけど、それは作品に必要な要素だと思ってる。反原発デモが新宿で行われると知った時に、とても複雑な気分になったんです。もちろん、原発推進はもう許されないと感じていたけど、デモ活動だけで問題の根本を塞いでしまっていいのか?という疑問も同時にあった。デモ行進って一体どうなっているんだい?って…じゃあ、逆走するしかないじゃないかって、とても捻くれた感情があったんです。

所有物を買う作品の方が、やってる事をよりクリアに言える。ちょっと話を変えると、もらうより捨てる方が難しい。経済においても、物をレジに通して買うよりも、一度買ってしまったものを、そうじゃない場所に移動させる方が難しい。そこに興味がある。例えばゴミをゴミ捨て場に置ける時間はすごく限られていて、燃えるゴミは火曜日の朝何時から何時までしか置けないという風に、ものすごくコントロールされてる。それとは違うけど、物を買うということも、実はそれくらい限定されたところでしか行なわれていなくて、売られているものは買うしかないし、買ったものは自分のものにするしかない。

「自分の所有物を街で購入する」2011
パフォーマンスのドキュメントビデオ(3チャンネル)

当たり前だけど、その流れからほとんどの人は逃れられない。でも、その仕組みの外に行ってしまえば、ものすごいことが起こるんじゃないかと思ってやったわけです。例えばバーコードは商品管理をするために商品ごとにあるわけだから、バーコードさえレジにおけば、たとえ商品じゃなかったとしても、お金を払うべき商品に早変わりするんじゃないかという発想でやってます。それはバーコード以外でも、物を管理する時に数字とかデジタル信号で管理することで、そのもの自体が認識されなくなる。記号化されていく中で起りうるバグみたいなものじゃないかな。使う人間は生身だから、バーコードで管理される経済活動はもっと不思議なものに見えてくるんじゃないかな。

4

それが絶対にやらなきゃいけない問題であるか


脇屋:ブログの中で、アーティストについて、「出来上がる作品が面白いことより、自分にとって大事なことをきちんと整理して、正確に、的確に、丁寧に、ごく自然に取り扱うことが出来るなら、芸術家になった方がいい。自分で問題をきちんと設定できて、たとえ解決できない事が明白だとしても、問題に体当たり出来る人の方が向いていると思う」と書いていましたが?

「泥棒と文通する」2010
パフォーマンスのドキュメントヴィデオ,ラムダプリント

丹羽:僕があまり展覧会に行かない理由はそこだと思う。出来あがった作品が最高潮ではない。もちろん展覧会という形を作るには作品という形を取るしかないし、作品は面白くなきゃいけないという大前提はあるけど、それ以上に、それが絶対にやらなきゃいけない大きな問題であるかどうかの方が重要だと思う。

脇屋:作品そのものよりも、作品を見せること自体に意味がある?

丹羽:そうかもしれない。作品が面白いかどうかという論議より何故それに取りかかっているかという建設的な話にしたいわけね。特にパフォーマンスしてる人って、作品がどこにあるかわからないし、作品かどうか自体もあやふやだし。見る人によっては作品じゃないと言われるし。誰が見てもこれが作品だっていうところに作品がないから。でも、ぼくにとっては、芸術は手段でしかないので、それでいいわけです。

5

作る前から「これやる」って絶対言おうと思ってる


脇屋:HPのプロポーザル欄は、突拍子もないことでも思いついたことを書いてるんですか?

丹羽良徳

丹羽:具体的には「こんなアイディアあるから誰か実現するためのお金くれよ」と、展覧会のボツプランを貯めておく場所として、いつか誰かが実現させてくれることを期待して先に言ってます。最近思ってるんだけど、作る前から「これやる」って絶対言おうと。完成するまで先に載せちゃうとか、こんな感じで作ってるとか、完成するまでの過程をfacebookとかtwitterに載せて、展覧会に来てないのに見た気にさせる。もちろん、実現させて映像撮ってドキュメンテーション作らないと作品にはならないけど、僕の作品の場合、タイトルだけで95%くらい完成してて、あとの5%は適当に映像撮って終わり、みたいになることもある。

脇屋:見る人の想像力の中で組み立ててもらう、みたいな?

丹羽:それでいいかなと思って、プロポーザルをたくさん載せてます。真面目に映像作ってる人からみれば、ぼくの映像はテクニック的にはお子様のホームビデオ的なものしか使っていないけど、それがいいんです。「やろうと思えば、誰でもできる」アイデア。言い方を変えれば、アイデアのオリジナリティーとか独創性なんかはあまり信じていない。「何故それをやるか?」ということだけ。

脇屋:以前言っていた「東京のコンビニとイラクの商店の照明を交換する」というアイデアも、さびれた商店で照明だけがギラギラしている状況がなんとなく想像できますね。

丹羽:じゃぁ、やらなくても完成だ。でも、やっぱり本当にやってしまわないといけない。実行が現実を作る。実はαMでやろうとしてたんだけど、キュレーターの鈴木さんに「丹羽くん、イラクなんか危ないだろ、事件でも起きたらどうすんだ?」って言われて「いや、ごもっともです」って。

6

作品タイトルが呪いの呪文になってる


脇屋:発想自体がユニークだけど、普段の生活ではどんな時に思いつくんですか?

丹羽:それは僕にも全然わかんないです。日々の生活の中で「こうなったらきっと不安になるだろうな」とか「ゾクゾクするなあ」と考えてることが多い。芸術の作品を作ろうと思わずに、これがこうなった場合にどうなるか常に考えている。そこで見えるシステムの穴みたいなのが見つかると、自分で突入したくなる。

あとは、呪い。貧乏な生活環境から覚えたことだけど、お金とか不動産システムなどを強く呪ってます。不動産だって、原始時代まで遡れば誰の所有物でもなかった土地が、ある時に「ここは俺様の土地だ」と暴力的に決定されて現代まで引き継がれてるわけでしょ?もちろん、こんな話を今しても「そうか、じゃぁ返しましょう」と言う人はいないけど、僕みたいに考える人がいて当然だと思う。ただ、僕はアクティビストではないから「土地を返せ」とは言わない。それをやったら単なる押し問答になるだけだから、自分のやり方で、何がどうなっているのか、自分の身体で試そうと思う。そうするうちに作品ができる。

誤解を恐れずに言えば、僕の芸術活動は批評とかそんなカッコイイことじゃなくて、根本にあるのは単なる「呪い」。作品タイトルがいつも呪いの呪文になってる。タイトルがいつも「○○する」なので、誰でも簡単に唱えることができる呪文。言葉が現実を召喚するはずだから。もう、コンセプチュアルアートの呪縛から解放されなくちゃと思ってる。無意識的に行っていたけど、自分の活動を振り返ると、僕は目の前に迫ってる現状に対して、あらゆる呪いをかけようとしてるんじゃないかと。呪文そのもの、もしかしたら、これはアジア的な考え方に結びつくんじゃないかという予感がしてます。

7

あらゆる面で流動的でいたい


丹羽:あと、最近わかったのは、昨日と今日は全く違うということ。例えば、50年前と今の貨幣価値が違うということはほとんどの人が知っているけど、今日の一万円と明日の一万円が違うかと聞かれて答えられる人は少ない。数学的に考えたら50年前と今日の一万円は同じ。となると、今日の一万円と明日の一万円が違わない限り、50年前の一万円と今日の一万円も同じになってしまう。あらゆるものが、あらゆる場面で、あらゆる時間で相対的でしかない。究極にいえば、1秒前の一万円と1秒後の一万円も違う。

脇屋:他の通貨と対比するとわかりやすくなりますね。秒単位で変わっていきますから。

丹羽:まさにそう。昨日の一万円と今日の一万円は、見た目が変わってないんだから同じと考えるのも当然の感覚だけど、厳密に考えれば変わっているかもしれない。だから僕のやり方では彫刻や絵を作れないし、映像だと思った。全ての価値が物質的にも存在的にも相対的でしかないから、あらゆる面で流動的でいたい。何かものを作ったりするのは自分のやり方としては適切ではない。価値も変わるし、ものも変わるし、地球だってなくなる。だったら、保存すべき美術なんて作る必要ないでしょう。でも芸術の可能性を感じているのであれば、そこで起きる物事や行為の方が有効なんじゃないかと思って作ってる。もちろん絵も有効だけど、絵はいつかなくなっちゃう。「100年残りますよ」なんて言われても、地球の歴史46億年に対して100年なら、5秒残るのと何が違うんだという感覚。僕らが生きてる世界はもっと不安定で、もっと汚いんじゃないかと思ってしまう。

YOSHOINORI NIWA
1982年愛知県生まれ。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科卒。不可能性と交換行為を主軸し、国内外の公共空間で、地域や社会への介入を試みるパフォーマンスやプロジェクトを発表。展覧会などの発表は欧州、北米、南米、アジアなど20ヶ国以上。主な作品に東ベルリンの水たまりを西ベルリンに移しかえる「水たまりAを水たまりBに移しかえる(2004)」、ヘルシンキで泥棒に銀行強盗をお願いする「泥棒と文通する(2010)」、東欧革命を知らない若者と社会主義者を結びつける「ルーマニアで社会主義者を胴上げする(2010)」など。展覧会に「複合回路 vol.3アクティヴィズムの詩学」(2010年、ギャラリーαM)など。参加アーティストインレジデンス事業に、国際芸術センター青森(2011年、青森市)、HIAP-Helsinki International Artist-in-residency Programme(2010年、フィンランド)など。また、2007年には公共空間を活用した国際芸術祭「Artist as Activist」などを企画。
http://www.niwa-staff.org/

インタビュー:脇屋佐起子
トップ写真:武田陽介
日時:2012年1月7日
場所:東京都美術館内 content restaurant

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